闇黒日記?

にゃもち大いに語る

まともに日本語の文章を讀めない人々

またぞろ變なコメントを書込んで呉れた人がゐたのだけれども、「何が書かれてゐるのか」を讀み取る事の出來ない人が案外多いやうなのだ。

山本夏彦が嘗て「文章は電光のやうに傳はる」と言つて澤山の人が感心したけれども、この言葉に欺されてはいけない。正確に書く技術とともに、正確に讀取る技術が、この世には存在する。慥かに「わかりやすく書く」事は必要だけれども、何んなに解り易く書かれた文章でも、讀む側が「わかるやうに讀む」事を怠つたならば、内容が傳達されない。
文章の意味を讀取るのに、感受性は必要ない。大學入試の現代文の問題で要求されるのは感受性ではなく讀取る能力だ。以前、作家が大學入試を解いてみて、自分の書いた文章の正しい意味を問はれた問題に正答出來なかつたと報じられた。書いた本人が正答出來ない問題に何の意味があるのかと糺彈されたものだが相變らず大學入試に現代文と云ふ科目は存在する。
大學入試で問はれる「或部分の正しい意味を答へよ」と云ふ問題は、要は「別の表現で言換へよ」と要求してゐるに過ぎない。誤答した作家は、ただ單に、言換へる技術を持たなかつただけだ。

文章の言換へは可能か。人によつては「不可能」と答へるだらうが、さう言ふ人はまだ安全だ。不可能な事と思つてゐるならやらない訣で、下手に言換へて言葉を不正確に傳へるトラブルは惹起こさない。問題は、「可能」と信じてゐる人が、不正確な言換へを平氣でやらかす事だ。
以前エロゲの高橋氏と論爭した時、こちらが道徳とは何かを説いたら、氏は即座に「抑壓」と表現した。天皇を論じたら、「天皇主義者」と表現した。それを氏は「適切な言換へ」だと心から信じてゐたのだが、氏の價値觀が入り込んだ表現を、客觀的な言換へと言ふ事は出來ない。氏のやつた事は巧妙な歪曲だつた。氏の場合、言換への技術を知らないがゆゑに、このやうな誤を犯したのであり、或意味、罪はない。
粘着の喜六郎や「義」等が良くやらかすのが、或目的の爲に相手の表現を故意に歪める事で、これらの人々は言葉の言換へを、わざと不正確にする。人の言つてゐる事を惡意に基いて曲解し、嫌な意味になるやうなパロディを作つて見せ附ける。當人、言換へが可能と思つてゐるのか、不可能と思つてゐるのか、それは解らないが、少くとも、多くの人をこれで欺せる、と信じてはゐる。これは非常にたちが惡い。だが、意外な事に、本當にこれで人は欺されるのである。多くの人が、言葉を言換へる訓練を受けてゐないからだ。

言葉の意味を扱ふのは意味論で、昨今その意味論に基いてセマンティック・ウェブなる「技術」が成立しつゝある。言葉の言換へ、或は、語彙の變換、これを機械的に行ふ技術があり得る訣だが、ウェブにたまたま大量のテキストが存在し、それを素材にする事が出來て初めて成立したから、技術がセマンティック・ウェブと呼ばれるだけで、意味論的に言葉を解釋する技術は別にウェブでなければ成立たないと云ふものではない。
全てデータとして扱はれる以上、デジタルの世界はありとあらゆるものが廣義のデータベースのシステムの中で運用されてゐると言つて良い。XMLも、結局のところ、テキストをデータとして扱ふと云ふだけであつて、「便利なデータベース」以上のものではない。XMLでデータをやりとりすると言ふのは、内容としてのテキストとともに、名前としてのテキストを扱ふ以上、一貫してテキストベースにすればデータベースは互換性が高くなるだらうと、その程度の事を考へてゐるに過ぎない。
言葉の言換へ、「正しい意味」を讀取る事、これらはただ、機械的に行はれ得る事を、人間が自分でもやる、と云ふだけの事だ。繰返すが、言葉の言換へに、感受性は必要ない。セマンティック・ウェブでもプログラムに感受性なんて物が實裝される事はない。ただ、我々は何でも機械任せに出來る訣ではなく、基本的な發想のところと最終的な確認のところで、自前で判斷しなければならない。それは訓練次第で誰でも出來るやうになる筈の事で、ただ日本ではその訓練がおざなりにされてゐるだけの事だ。
ゆとり教育の見直しで、相變らず見直されないのが國語と云ふ教科だが、今でもいちめんのなのはないちめんのなのはなをやつてゐるのだらうか。あんな下らない事を「教へる」と云ふのは如何なものかと思ふのだが、多くの国語教師が、自分逹のやつてゐる教育を「素晴らしいもの」と信じてゐる事だらう。しかし、あんな詩を教はつて、それで立派な感受性を持ち得た人がどれだけゐるだらうか。2ちゃんねるを見てみれば、感受性のをかしな日本人は大量に存在する事が判る(やつと気附いたのだが、喜六郎の變な言葉は、噂の真相の岡留とそつくりだ)。感受性は教育出來ない。
別にハケーンでも何でも言へばよろしいが、をかしな感受性の持ち主であつても、正しく讀取る技術は習得可能だ。國語科では是非とも「正しく書く」技術とともに「正しく讀取る」技術の教授をやつて貰ひたい。今のゆとり教育見直しでは理數系の教育だけを強化する積りらしいが、セマンティック・ウェブなんかは理數系の知識だけでは理解出來ない。いちめんのなのはななんてものは何の役にも立たないが、本來國語教育が行ふべき「書く技術」と「讀む技術」の教授はこれから極めて重要なものになる。論語なんかを教へたのはまだしも有益なのであつて、同じやうな句を繰返す表現が多用される漢文は、割と論理的なものなのだ。いちめんのなのはないちめんのなのはなはただ綺麗なだけだが、子曰、學而時習之、不亦説乎、有朋自遠方來、不亦樂乎、なんかでも、對になる言葉があつて、論理的に聯關しあつてゐる事が判る。英語の論文で屡々繰返しが見られるけれども、あつちの連中は子供の頃から論理的に文章を書く訓練を受けてゐるのであり、それゆゑ非常に理窟つぽいが、理窟と文法で連中の文章は讀解く事が可能である。
日本語の文章でも、大雜把な「書く技術」が知られてゐて、繰返す、言換へる、と云ふ事は、普通に行はれてゐる。それで論理的に話が進められるから、日本語の文章でも別に論理的な事を言へない訣ではない。その邊の事を大學入試では問題にするのであつて、飽くまで論理を問題にしてゐるに過ぎない。ところが、大學入試の現代文の問題と、小學一年生の国語の授業では、内容の極端な乖離がある訣だ。日本の教育はいびつであるが、子供を大人と完全に切離して温室で育てようと言ふのが日本の教育者の間で支配的な思想だから何うにもならない。