闇黒日記?

にゃもち大いに語る

絶對無敵名無しさん


こういう意見は、塗炭氏のみならず松原信者もこれに近い事を度々宣うことがある。
「匿名投稿は無責任であり、俺たちは実名で投稿してるから言論責任を取っているんだい!」と。
匿名の投稿者が無責任であるという意見は私も否定しない。
私だって無責任だし。
ていうか、そもそもネットというのはそういう場所なんであって、言論責任を求めるのであれば、ネット以外の発言手段を模索するべきだと思う。

どこにそんな人が存在するのか知らないが、「松原信者」なる喜六郎の頭の中にだけ存在する人々はさうなのだらう。自分に都合の良いやうな敵を作つて罵つてゐれば敗ける事はない。

さて喜六郎子、要は「匿名萬歳」「實名は出て行け」と、それだけの事を言つてゐるに過ぎない訣だが、これ程非道い開き直りも無いと思ふ。2ちゃんねらーも病膏肓に入るとかうなつてしまふのだが、さすがにさうなると何處でも爪彈きされるものだ。喜六郎が2ちゃんねるを出てブログを作り一國一城の主となつたのも理由がない訣ではない。

喜六郎は、例によつて「である」論と「べき」論を區別しない誤に陷つてゐる。「實名の人間は、責任を取るべきだと言つてゐるが、現に責任をとれてゐないではないか」と、喜六郎は言つてゐる。この主張を見て、恐らくこのブログの閲覽者の人でも、九割方の人が納得してしまふだらう。けれども、これを納得出來てしまふ方がをかしい。なぜなら、責任をとれてゐないからと言つて、その人が「責任を取るべきだ」と主張しても矛盾にならないからだ。
當り前過ぎる話だが、「である」論で「べき」論を潰してやらうと言ふ人間は、これが解らない。喜六郎も解らない。××××には何を言つてきかせても解らないのであつて、本當に困つたものだが、さう云ふ連中が威張つてゐるのが今のインターネットだ。

だからこそ、正常化の爲の努力が必要なのであつて、そこでは責任ある言論と云ふものが要請される。「無責任萬歳」「匿名萬歳」「實名の奴は死ね」みたいな主張がおほつぴらになされるやうでは困る。斯う云ふ主張をする人間こそ潰されるべきなのであつて、ところが日本に於て「まともな側」の人間はをかしな輩を潰さない。
「さはらぬ神に祟りなし」と言つて、何事にも關り合ひにならない事が日本では「まとも」であるのであつて、××××と戰ふ事は最早「まともでない」と看做される。をかしな人間を叩いても、叩く方「も」をかしいと言はれる。それがをかしな人間には嬉しくて嬉しくて堪らない事なのだが、さうやつてをかしな人間を間接的に支援して、「まともな人間」は屡々滿足する。
スルーは容認であつて、をかしな人間をスルーする「まともな人間」は、をかしな人間のをかしな主張を容認してゐる。のみならず、屡々助長してゐると言つて良い。さう言ふと八つ當りだの何だのとまたぞろ人を「をかしな人」と云ふ事にしてしまふ人が出て來る訣だが、それこそ本當にをかしな人間を支援する事だ。ほぼ全てのウェブ閲覽者が全く自覺ナシである事は、或意味、喜六郎の思ふ壺で、だからこそ喜六郎は自分に都合の良い妄想の世界を思ひ描いて好い氣になつてゐられるのだが、それでは困る。

インターネットは今、企業サイトの領域と、匿名の連中がわーわー喚いてゐる領域とに、二分されてゐる。兩者の懸隔が開きつゝある事は事實として認識される必要がある。だが、「それが現實だ」と言つて受容れる必要も必然性も全くないのであつて、飽くまで一媒體として他の媒體と同じく責任ある言論と云ふものを追求して行く事は必要である。インターネットだけが特別、と云ふ發想こそ異常であつて、喜六郎のやうな考へ方こそ異常であると我々は信じなければならない。さもなくば、インターネットは危險なだけで何の役にも立たない場になつてしまふ。それを喜六郎は望んでゐるのだ。喜六郎はインターネットの敵である。