闇黒日記?

にゃもち大いに語る

解釋次第

児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO052.html

児童ポルノ」以前に「児童」の定義がわからんと言へばわからんのだが、何れにしてもこの法律、「解釋次第で何うとでもなる」「だから良くない」と言つて、みんな心配してゐるらしい。


けれども、日本人は基本的に「解釋次第」を「大變に良い事である」と信じてゐた筈だ。何で今さら解釋次第である事を非難する必要があるのだらう。
わが「日本国憲法」の規定を、我々は「解釋次第」と云ふ事で、骨拔きにして、誇りに思つてゐるではないか。
「戰爭抛棄」の規定を當初、我々日本人は「如何なる場合でも戰爭を放棄する」と解釋して、世界に誇つてゐた。それが今では、「侵掠戰爭はNG、自衞戰爭はOK」と云ふ解釋に變へてしまつて、しかもその「解釋を變へた」事實を大變素晴らしい事であるかのやうに言つてゐる。
俺は、例のえろげの高橋氏(「闇黒日記」過去ログ參照の事)が、憲法の解釋變更を、全然問題視しないばかりか、寧ろ「現實的である」として高く評價したのを覺えてゐる。その高橋氏は慥か「児童ポルノ法」には反對だつた。「抑壓だから」と云ふ氏獨自の論理があるのだが、その論理を持出したり持出さなかつたりして、あつちでは解釋次第OK、こつちでは解釋次第NGと言つて、氏は威張る事が出來るらしかつた。
俺にしてみればさう云ふ態度こそ御都合主義だらうと思ふのだが、日本人はこの種の御都合主義が大好きで、だからこそ「支配者」の御都合主義にも敏感になるのだらう。しかし、御都合主義や「解釋次第」をあつちこつちでやらかしてゐて、それで日本は法治國家と言へるのか。

高橋氏は、戰爭に關する規定が曖昧だつたりしても、基本的人權の規定があるから「日本国憲法」を變へてはならないと主張した。或規定が大事だから、他の全ての缺陷は無視して良いと氏は主張したのにほかならない。ところが、兒童虐待を取締る規定を無視して、氏は「解釋次第」で「變な取締り」に用ゐる事が出來ると言つて「児童ポルノ法」を全否定した。
訣がわからないとしか言ひやうが無いのだが、我々は結局のところ法律そのもの・思想そのものは無視して、自分にとつて都合が良い・惡いで主觀的・勝手に物事を判斷して、客觀的・冷靜に判斷する事をしないのだ。伊藤真氏が慥か何處かで書いてゐたけれども、我々は法律の記述を用ゐて自分の主張をするのだ。伊藤氏の法律に關する本は日本の法の現状を的確に示してゐるけれども、最う日本の法環境(?)は目茶苦茶だと言つた方が良いと思つた。


大體「児童ポルノ法」を「政府」だか「支配者」だかが「自分たち」に都合良く解釋して、どんどん無茶な取締りを始めたとしても、それが國民の權利を侵害する事なら憲法の規定に基いて處罰は行はれない筈だ。裁判で有罪が確定するまで我々は無罪と看做される。取締りをされた時點で我々は何か「惡い事をした」のが確定するやうに思ひ込んでゐるが、そんな事はなくて何時でも推定無罪である。其處に我々の勘違ひの最大の原因がある。
裁判所は常に政府よりの判決を下すと云ふ話もあるが、それなら裁判所のあり方そのものを問題にすべきだ。三權分立とかの立場から大いに批判すれば良いと思ふ。實際には國に不利な判決も隨分出てゐるやうだし、さうなると一概に話は出來ない筈だが――

我々日本人は自分逹が十分民主化され、と言ふより、十分近代化されてゐると信じてゐる。けれども、案外多くの部分で近代以前の、封建的(?)な發想に基いていろいろやつてゐるのでないか。「それで良い」のなら我々は無茶な取締りに文句を言ふ事は出來ないし、「良くない」のなら憲法の問題その他をどんどん議論し改善して行かねばならない。その邊りを日本人は適當に濟まさうとして、それで世の中出たら目な話が横行してしまつてゐるやうに思はれる。