闇黒日記?

にゃもち大いに語る

なんでそんなに人許りを問題にするの?

「アンチ」の喜六郎が相變らず「アンチ」獨特の「論理」を展開してゐるので嗤つてやらうと思ふ。


掲示板やブログなどで「正字正かなは正しい」節を連呼している、通称「正かなアホッチ群」の方々。
嫌われてるのは「正字正かな」ではなく、正かなアホッチ群の方々だということに彼らは未だに気づいていない。
要は目的の問題ではなく、方法の問題。
例の松永氏の批判も、目的への違和感じゃなくて方法への違和感なんだろうが、正かなアホッチ群は目的そのものを批判されたと誤解して被害者妄想全開でシュプレヒコールを挙げる醜態を演じている。

「正かなアホッチ群の方々」の氣にしてゐるのが、「方法」なんだか「目的」なんだか「方々」なんだか、さつぱりわからない――が、それは何うでも良い。「正かなアホッチ群の方々」なる存在はこの世に存在しない存在で、喜六郎氏は訣のわからない名稱の「方々」を頭の中に作り上げては、シャドーボクシングに勤しんでゐるのだ。そんなもので頭の筋肉が鍛へられるなら、幾らでもやつてゐれば良い。無駄な努力もしてゐれば自己滿足くらゐは出來るものだ。

いづれにしてもこの「アンチ」の喜六郎氏は、相變らず「彼ら」なる存在を問題にしてゐるらしい。
この「アンチ」の習性は、實に愚かしいものだ。まともな人間が相手にしないのも當り前の話。喜六郎氏の「ブログ」は、昔も今も、あたまのをかしな連中が集つて人の惡口を言ふのに利用されてゐるだけで、まともな人間からまともに相手にされた事がない。それはまあいい。

なぜ「アンチ」の論法は愚かしいか――それは、一言で言ふ事が出來る。「アンチ」は問題を、「事」から「人」にすり替へてゐるからだ。

話のすり替へをやつて、それで「勝つた」「勝つた」と「アンチ」は大喜びをしてゐるのだ。こんなに愚かしい事はない。ところが「アンチ」はわからない。頭が惡いからだ。俺は時々、彼等「アンチ」の頭の惡いのが羨ましくなる。自分の頭さへ惡ければ、簡單に幸せな氣分を味はへるからだ。

頭が惡いものだから、喜六郎氏は自分のやつてゐる粘着と云ふ行爲が醜惡である事にも氣附けない。だから喜六郎氏は、自分の事を棚に上げて、こんな事を書けてしまふ。

(あくまで「仮に」の話だけど)正しい主張をしているとしても、主張を伝えようとする手段が醜悪だから周囲に嫌われるんだけど、やってる本人達はそのことに気づかない。


さて、なぜこの喜六郎氏は、人を問題にするのだらうか。答は簡單だ。喜六郎氏は、思想とか哲學とか價値觀とか、さう云ふ事に關心がないからだ。だからこそ、思想それ自體を問題にする事が出來ず、人の問題に何でも話を摩り替へて、それで喜六郎氏は、ただ、人を馬鹿にして樂しんでしまふ。
喜六郎氏は、正字正かなとか、正しい日本語とか、或は正しい論理とか、さう云ふ事にはまるで興味が無い。要は意識が低いのだが、俺等から「意識が低い」と言はれるのが嫌だから、いつぱしの批評家のやうな顔をして、俺を非難して、勝つた氣になつて、腹癒せをしてゐるのだ。

しかし、斯う云ふ人相手の鬪爭に現を拔かしてゐるのは、非常に良くない。

日本では、政治家が權力鬪爭に現を拔かし、敵の陣營の人間の人格を問題にして許りゐたものだから、政治それ自體が空洞化して、國民は政治に見向きもしなくなつた。
政治家は、思想・觀念それ自體を問題にせず、話を「人間の問題」にすり替へて、それで自分に有利になるやうにと活動してきた。だが、その結果として、國民の政治不信を招いたし、政治それそのものも非道い事になつてしまつた。

斯うした權力鬪爭は明治以來、日本の政治では常に行はれて來た事だ。明治から大正、そして昭和の初期にかけて、權力をめぐつて空しい鬪爭が續けられた。結果として、政治家による政治が崩潰し、軍國主義の出現を招いた。
軍の横暴を政治家が抑へられなかつたのは、政治家が政治をせず權力爭ひをしてゐたからだ。戰前の政治家は、感情的にいがみ合ひ、嫌ひな相手を潰す爲に黨派を組んでは分れるのを繰返した。
そんな政治家は、實際的な軍の言葉に反論出來なくなる。日本全體が非合理的な精神主義に染まる中で、軍隊もまた精神主義に陷つたが、さうは言つても零戰は整備しなければ飛ばない。軍隊と云ふものは、精神主義を標榜しても、何處までも合理的でなければならない存在なのだ。政治家は、遂にあきらめて、全部を軍に押附けて、責任を放棄してしまつた。軍人が無能であつたとしたら、政治家はもつと無能であつた訣だ。

最終的に、大日本帝國は滅びた。政治家が理性的な判斷を行はず、軍も決してまともな判斷を出來た訣ではない。人事は所詮、感情に基づいて行はれた。敗戰直前になつて切羽詰り、感情論を排した判斷を下さざるを得なくなつて、漸く有能で合理的な知性を持つた栗林中將を硫黄島に送り込めたに過ぎない。


――過去の過ちから、今の日本人は何も學んでゐない。喜六郎氏も學んでゐない。喜六郎氏を支持する「アンチ野嵜」「アンチ松原信者」の諸氏も、何も學んでゐない。ただ目の前の敵を罵り、その人格を否定して、それで問題は片附いたと思つてしまふ。
日本の右翼も、左翼も、2ちゃんねらーも、「アンチ」の喜六郎氏も、結局のところ、「人間の問題」許りにかかづらつて、鬪爭に明け暮れてゐるだけでしかない。

いや、鬪爭どころの話では無い。鬪爭なら政治生命くらゐは賭かつて來る。喜六郎氏らは、賭けるものが何もない。氣樂に人を小馬鹿にして喜んでゐる許りである。あとは氣樂なマスコミ批判。なんて氣樂なんだらうと本當に羨ましくなる。モラトリアム世代萬歳。

嘗て社会党自民党が「野合」して連立政權を作つた時、福田恆存は、最う日本も終りだ、と嘆いたと言ふ。理念、價値觀、思想と云つたものを氣にせず、ひたすら「人」の關係で動く日本人――革新派の社会党と保守派の自民党が、理念・價値觀を無視して、ただ權力を握る爲に、「野合」した。これを福田氏は許せなかつた。今の理念なき民主党は、當時「野合」して政權を作つた社会党自民党の人々の末裔である。その民主黨は今、小沢黨首の秘書の問題でごたごたしてゐる。小沢氏は泣きさうな顏で記者會見をして、黨首として續投すると聲明を出したが、何とも浪花節的な會見だつたと思ふ――日本人は昔からこれなのだ。「人」「人」「人」。浪花節
喜六郎氏も古い日本人で、浪花節的なのだ。斯う云ふ人がゐるからこそ、日本は(政治の領域に限らない、ありとあらゆる場で)じめじめとしたまゝなのだ。