闇黒日記?

にゃもち大いに語る

參考にならないブックレビュー――本を論じず、讀者を論ずる愚

喜六郎が『私の國語教室』の「レビュー」を書いてゐる。

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4167258064/ref=cm_cr_dp_synop?ie=UTF8&showViewpoints=0&sortBy=bySubmissionDateDescending#R2H7C33V9FQG84
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/
福田恆存が国語問題にかけた情熱は本物だと思うし、この本も名著ではある。
しかし、この本に影響を受け、「正字正假名遣ひ」の実践を試みる人達の言動を見ていると首をかしげざるを得ない。 この本に影響を受け、ネット上で「正字正假名遣ひ」を実践する人達がいるが、そういう人達の中に、自分たちを「正字正假名を体得している意識の高い日本人」と規定し、「正字正假名を読めない書けない意識の低い日本人」を罵倒する、安直な知的スノッブのパターンに嵌まっている手合いが少なくない。
福田恆存は、こういう「文化人」の鼻持ちならないスノビズムを嫌悪し、痛烈な批判を浴びせていた人なのだが、その福田恆存の著書が、知的スノッブ達の「錦の御旗」となっている状況は何とも皮肉としか言いようがない。

相變らず本を論じず讀者を罵倒して威張つてゐるのだからあきれる。この人は他にやれる事が無いのだらうか。藝がないとしか言ひやうがない。「福田信者批判」「松原信者批判」――そして「文化人批判」。「安直な知的スノッブのパターンに嵌まっている手合い」と言つてゐるが、喜六郎自身は「パターンに嵌まっている手合い」でしかない。

何時も同じ事を言つてそれだけでメシを食つてゐる人間を福田恆存は非難したはずだが、「メシさえ食っていなければ全て免罪される」と喜六郎は思つてゐて、剩へ「免罪されたから、俺には他人を嘲る権利があるのだ」と變な理窟で自己を正當化してゐる。これ程身勝手で自己中心的な態度もないが、案外ウェブには斯う云ふ手合が少くない。
「知的スノッブ」と言つて喜六郎は他人を罵つてゐる――「自分は知的スノッブではない」と信じてゐるからだ。ところが、誰が何う見ても喜六郎は知的スノッブだ。喜六郎は、自分の知性を賣り物にしてゐない積りでゐる。ところが、喜六郎が自慢してゐるのは、自分の知性なのだ。知的スノッブでない訣がない。ところが喜六郎は、自分には他人を「知的スノッブ」と言つて嘲る權利がある――自分は偉いのである、と云ふ思ひ上りがある。

何と傲慢な人間だらう。

ところが、喜六郎などまだまだ小物。ウェブにはもつともつと非道い手合が大量に棲息してゐるのである。だからこそ、喜六郎は安泰で、安心して高所から他人を見下して、偉さうに人の態度にいちやもんをつけて、遊んでゐられる。

福田恆存は、『私の國語教室』を含む國語問題關係の本で、國語改革の當事者が如何に反對者を人とも思はず他人を馬鹿にした態度で自分のやりたい放題にやつてゐたかを指摘してゐる。金田一京助が、福田氏を自分の息子と同級生と知つて急に尊大になつた事實を指摘してゐる。國語改革の當事者が、國語問題それ自體について、反對派の意見そのものを無視し、反對派の人格を攻撃して反対を封じ込めて來た事實を、福田氏は指摘し、大變憤つてゐる。
喜六郎には、さうした福田氏の怒りを讀取る能力がなかつたらしい。福田氏は、人の人格を論じず、飽くまで國語それ自體に注目してほしい、問題意識を持つて欲しいと訴へた。ところが、喜六郎は、國語問題それ自體には大變おざなりな態度しか取らず、ひたすら「影響を受けた人々」と云ふ漠然とした言ひ方で、人の人格を云々してゐる。

「この本に影響を受け、「正字正假名遣ひ」の実践を試みる人達の言動」が何うの斯うのと偉さうに喜六郎が語つてゐるのを見たら、福田氏は何と思ふだらうか。

喜六郎は、福田氏の本を讀んでゐるやうで、實は讀んでゐない。ただ、福田氏の讀者を嘲るのに、福田氏の著作を利用しただけなのだ。これが俺には許せない。

Amazonでは、喜六郎のレビューに對して、「13 人中、5人の方が、「このレビューが参考になった」と投票してい」るらしい。見る目のない人間もゐたものである。