闇黒日記?

にゃもち大いに語る

言論の自由と云ふ事

言論の自由を主張してメシを食つてゐる人間もゐる一方で、言論の自由を主張する人間を罵つてメシを食つてゐる人間もゐるのが日本と云ふ國。

平和主義を主張してゐる世界がある一方で、現實主義を主張してゐる諸君や正論がある。が、何れにしても、それが單なる政治的なスローガンの連呼に過ぎないのなら、それは馬鹿にして良いものだ。日本人は屡々「政治的」であればそれは高尚だと信じてゐるものだから、スローガンの連呼を大變高尚な事と勘違ひしてゐる。けれども、そんなのは馬鹿馬鹿しい事だ。松原正先生が西尾幹二西部邁を批判するのは、彼等が政治的な事を言つて滿足してゐるからだ。

さて、政治的な事を言つてゐる日本人が屡々極めて何うしやうもないものである一方で、政治はそれ自體として決して馬鹿馬鹿しいものではない。我々人間が社會的存在である以上、社會は存在せざるを得ず、社會秩序もまた存在せねばならない。その社會秩序を維持する事は――そして社會秩序を成立たせる必須の條件として社會を構成する人間の存在を維持する事は不可缺である。
人はパンのみにて生くるに非ず、しかし、より良く生きる爲に、人はパンによる必要がある。ただ、パンさへあればそれで萬事解決する、と考へる誤に日本人は陷りやすい、と云ふ事だ。その誤を、西尾や西部は自覺してゐない、彼等の言論は、或政治的立場から他の政治的立場をやつつけるだけのもので、松原先生の言葉によれば、そこには哲學が無い。

我々は、政治の事を語つて文學的に成功した例を知つてゐる――と誰かが言つてゐたけれども、その成功例とはジョージ・オーウェルの事で、『1984年』にしても『動物農場』にしても、其處に單なる政治的スローガンの連呼とは異る文學的價値を見出す事が出來る。それは眞實を言當ててゐると云ふ立派な價値であつて、我々はさう云ふ價値を持つ事を言はうとしなければならない。
ただ他人の言つてゐる事の揚げ足をとつて、或は、自分の立場から他人の立場を惡と極附けて――それが自分を利巧に見せかけるだけの爲に行はれてゐる行爲なら、我々はそれが如何に正論に見えようとも、寧ろ邪論として排除しなければならない。