闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「はてな」方面で行はれる恐るべき「南京大虐殺あつた派」の宣傳工作

南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々が以下のやうな事を言つてゐる。


「南京厨」は「南京で大日本帝国による虐殺なんかなかったで厨」の略称(@∀@)

南京厨の活動が問題なのは意見が間違っていることではなく、議論そのものの破壊を企図してるからなんだけど、外野からしか見てないとそういう印象を抱いてしまうのはいたしかたないかも。

「闇黒日記」以前から俺の事を知つてゐる人は全員知つてゐる事だけれども、Yahoo!掲示板で「南京大虐殺」に俺が疑問を呈してゐた時、「南京大虐殺」は「あつた」と主張する連中は何をしたか。議論の妨害と、俺と云ふ論者個人の人格を否定する行爲だつた。

南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々が、「なかつた」と主張する人間が「議論そのものの破壊を企図してる」等と言ふ事は許されない。
「あつた」と主張する人は、「あつた」事を頭から「事實」であると極附け、それに反對する人間がゐれば「歴史修正主義」やらなんとか「厨」やらレッテル貼りを行ひ、それでもまだ疑問を呈する人間がゐればその人格を否定し、兔に角議論を成立させまいとしてしまふ。ところが、「あつた」派は、自分逹が「議論を成立させまいとしてゐる」事實を認めない――認められないのでなく、そもそも自覺できない。
彼等「あつた」派の考へる「議論」とは、「南京大虐殺」は「あつた」のか否か、の議論ではなく、「歴史的事實として存在する南京大虐殺について」の「議論」である。その「議論」を「破壞」しようとするからこそ、「なかつた」派を「あつた」派は許せない。
そんな馬鹿な話があつて良いのだらうか。「良いに決つてゐる」と「あつた」派は言ふのだが、それはそれが「あつて良い」のならば「あつた」派は大變都合が良いからに過ぎない。仲間同士で馴れ合ひを演じられて、「なかつた」派の人間を集團で侮辱できれば、「あつた」派は滿足なのである。
けれども、誰が何う見ても、「あつた」か何うかが確定しない限り、「あつた」と云ふ前提での話は出來ないのであつて、それを「出來る」と言張るから「あつた」派は傲慢である。

この記事を見て、「あつた」派は、自分逹がどんなに惡い事を平然と主張してゐるか、自覺出來るだらうか。出來ない。出來ないに決つてゐる。彼等は、自分達を疑ふ人間は全て××××だと思ひ込み、自分逹の主張を反省しようとする事はないからである。
彼等は、「南京大虐殺」は「あつた」と主張する事がそれ自體として善行であり、それを疑ふのは惡魔の所業だと信じてゐる。彼等は「なかつた」派の人間を「人間未滿」と看做し、「なかつた」派を侮辱して當り前のやうに思ひ込んでゐる。
けれども、他の人を、人未滿と看做し、人に對してでないやうに取扱ふ事は、實はそれこそが人間に對する虐待であり、虐待は虐殺への第一歩である。「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々は、虐殺を憎惡してゐるやうで、實は自分逹の中に虐殺への傾向を孕んでゐる。自分の中にある「虐殺への傾向」を、「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々は自覺せず、自覚できないのだから當然反省しない。「君の心が戰爭を起こす」とは羽仁五郎の名キャッチコピーだが、將にそれが當嵌るのが「南京大虐殺あつた派」の人々なのである。