闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「南京大虐殺はあつた」派の「議論」とは?

十年前のYahoo!掲示板での「南京大虐殺」論爭の事を段々思ひ出してきた。今も「あつた派」の人は「出發點」で足踏してゐるのだなあと思つた。
「あつた派」の人は、「南京大虐殺はあつた」と云ふ處から「議論」をはじめたい。ところが、そこに「南京大虐殺はなかつた」と、「議論」の出發點を否定する主張が入り込んで來る。それが「あつた派」の人は許せない。

http://d.hatena.ne.jp/mujin/20080103/p1
歴史修正主義は意見が正しいかどうかのレベルではなく、議論の場、ルールそのものを破壊することを目的としていることこそが問題なのに

「あつた派」の人が言ふ「議論の破壞」と云ふのは、要は「『あつた』と云ふ結論の破壞」以外の何物でもない。

「あつた」を否定するから「なかつた」と云ふ意見がある。それは當り前の話だ。そして、「なかつた」と云ふ否定論を完全に論破して、はじめて「あつた」と斷定する事が出來る。これは學問的な論爭での當り前の態度だ。ところが、「なかつた」と云ふ意見を――意見すらも――「あつた派」の人は「持つてはいけない」と主張してゐる。剩へ、「なかつた」と言出す事はそれ自體として「議論の破壞」だ、と言つて、「なかつた派」の人格を根柢から否定するやうな事を言つて、宣傳してゐる。
誰が何う見ても、「あつた派」は「南京大虐殺と云ふ事件の有無」に關する議論を根本から否定し、議論を破壞してゐる。ところが「あつた派」は「なかつた派」と云ふ論者の存在がそれ自體として「議論の破壞」であると言ふ。

南京大虐殺」と云ふ「一つの事件」の定義は、「南京大虐殺はあつた」と主張する人々の間でも確定してゐない。現時點で、歴史學的に「南京大虐殺」と云ふ「一つの事件」を認めて良いか何うかは、甚だ疑問だ。



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「あつた派」の人のコメントを見てみよう。

議論すべき価値が無い相手であるという意味で「厨」と表現することはまったく正しい。重要なのは南京厨との議論ではなく、良い議論をしている人を紹介することだ。

これが他人を見下した物の言ひ方である事は、まあ、常識のある人間ならば誰でも判る事だらう。
mujinさんは「ため息をつき、読者の同意を求めてるだけの内容のうすっぺらなエントリなんだけど」と言つてゐるけれども、「そして、実は、そういう混乱を振りまくことが南京厨の活動目的の一つだったりする(笑)。」と言つて、「エントリ」そのものを否定しないし、「南京厨」と云ふ人を見下した言ひ方を平然と使つてゐる。


俺にしてみれば、「なかつた派」による「相殺」や「混亂の惹起」は大變好ましい物だ。なぜなら、世の中、全ての論者が全く同じ意見を持つ事、反對意見なしに世の中が全體として一方向に進んで行く事は、大變危險だからだ。「惡魔の辯護人」は何時の時代でも必要だ。
戰前の日本は、全體主義で、反對意見の存在すらも認められず、ブレーキをかける人間もゐないまゝ、世の中が一方向に進んでしまつて、それで破滅に至つた。
我々日本人は、全體主義の誤を悟つて、それで多樣な意見が許される自由主義と民主主義を採用したのではなかつたか。昨今の「南京大虐殺」論爭で、「あつた派」は、「あつた」と云ふ意見だけしか存在してはならない、「なかつた」と主張する人間は人間ではない、と主張し、一種の「全體主義」を推進してゐる。
過去の日本人の「全體主義」を否定する爲に、現代の日本人が再び「全體主義」を採用してゐる。
――この矛盾、この異常を、日本軍を非難する「あつた派」ではなく日本軍を擁護する「なかつた派」が自覺してゐるのは、今の日本と云ふ國が異常だからに相違ないが、困つた話だ。


と言ふか、mujinさんの「南京大虐殺は既成事實!」と云ふ主張の仕方が俺には大變氣に入らない。「現代仮名遣」を「既成事實」と言つて正當化するのと全く同じ論法だからだ。と言ふより、俺は「既成事實」を押し立てて自己を正當化しようとする日本的な餘りに日本的な「議論のやり方」に腹を立ててゐて、それで「南京大虐殺」も「日本国憲法」も「現代仮名遣」も氣に入らない訣だ。どうして「既成事實」として、はなから「正しい」と極附けて、話をはじめなければならないのだらう。
mujinさんにしても、結局は他の「あつた派」と馴れ合ひたいだけなのだとしか俺には思はれない。かつてYahoo!掲示板で、「あつた派」が互ひに連絡を取合ひ、連係して「なかつた派」を包圍し、氣に入らない人間の吊し上げを行ひ、快を貪つたやうに。


あと、「なかつた派」の文章は割と上品で、「あつた派」の文章は品がなくふざけてゐる事が多い。これは何う云ふ事なのだらう。不眞面目である事は良い事なのか。「良いことです(笑)」とmujinさんは笑つて言ふのだらうが、笑つてゐる事がそれ自體として許されないと云ふ事に何うして氣附けないのだらう。ふざけた人間だからでないか。現代の日本もふざけた人間に寛容だが、戰前もこの種のふざけた人間は日本では當り前の存在であり、だからこそ戰前の日本人はふざけて支那人を殺して喜んでゐられたのだ。「ふざける」事の極めて重大な問題が「ある」のだが、ふざけた人間にその事は自覺できまい。mujinさんも自覺できない事だらう。だから「あつた派」の人と議論しても、議論は成立しない。眞面目に自らの事を省みられる人間でなければ、全うな議論をする事は出來ない。
ふざけて石を投げる手合が「あつた派」には餘りにも多過ぎる。もつと眞面目に話をして貰ひたい物だが、そもそも平和主義・反戰思想は全て一つの例外もなしに、不眞面目な物であり、不眞面目な生き方を肯定する目的で存在するものなのだから、何を言つても無駄だらう。
歴史修正主義者の欺瞞に対する社会の免疫のなさ」とか云ふmujinさんの言ひ方も、俺には極樂蜻蛉のたはごとにしか見えない。「あの戦場に立てば、わたしも含めて誰もが蛮行に及んだであろう危惧はあります。」と云ふのが眞實ならば、「社会の免疫のなさ」だつて別に當り前の事だらう。人にその種の傾向があるなら、どんな事をしたつて止められない。危惧なら幾らでもして構はないけれども、どうせ危惧したつて「やつた」後で責任が問はれるだけだし、危惧で傾向は止められない。「南京大虐殺」の「責任」を問うたところで人間は虐殺を繰返すだけだし、社會は欺瞞を看過し續ける。ならば「あつた派」がしたい「議論」に價値はない訣だ。人の傾向・社會の傾向を全肯定するなら、我々は正義を振りかざして危惧したり抵抗したりする意味は無い。
そして、正義を認めるならば、我々は正義を守る戰ひを肯定せざるを得ないのであり、人間が正義を認める人間である限り人間がする戰爭はなくならないしなくすべきでない。
日本人が正義の戰爭を知らないのは、日本の特殊な現象であり、「南京大虐殺」も日本人が正義と關係ない帝國主義戰爭を戰つた結果に過ぎないのだが、ならば我々は「南京大虐殺」の「責任問題」なんて下らない事は議論しないで、もつと根本の日本人の價値觀について議論すべきでないか。「あつた派」の人々に反省を促したい。俺は「南京大虐殺」論爭を根柢から破壊したい。