闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「南京大虐殺」はなかつた

せつかく「今囘の論爭」を纏めて貰つて申し訣ないけれども結局何處も見てゐないよ。何うせ十年前から話は進んでゐないに決つてゐるし、讀者を裨益するやうな内容の書かれた「南京大虐殺」に關する主張は存在しないに決つてゐるから見てもしやうがない。

大體掲示板における「南京大虐殺」の「あつた」「なかつた」の論爭のパターンは決つてゐて、「あつた」派が適當に「あつた」「あつた」と喚く→「なかつた」派が出て來る→「あつた」派が演説する→「なかつた」派が突込む→「あつた」派が「なかつた」派の突込みを嘲笑→「なかつた」派が再突込み→「あつた」派が集團で一人の「なかつた」派を取圍んで總括、のループ。
この過程で、「あつた」派は、最初から證據を示さないで、ひたすら虐殺された人の數の話だけを進める。そこに「なかつた」派が引掛かる羂があるのであつて、「あつた」派は何一つ證據を示さないで話をするのだ。だから「なかつた」派が「あつた」派の「よくある證據」の嘘を指摘しても「あつた」派は全然怯まない。
「あつた」派は絶對に怯まない。何より「あつた」派は強みを持つてゐる。「なかつた」派が誰一人として「日本兵支那人を一人も殺さなかつた」と主張出來ない事を知つてゐるからだ。「日本軍に所屬する日本人が支那人を一人でも殺してゐれば責任を追及する」と言ふのが「あつた」派の主張だ。そして、「あつた」派は常に「なかつた」派に「『なかつた』派が支持する秦教授」ですらも「日本兵が南京で數千人殺した」事實を突きつける。「何しろ殺したのだから仕方がない」と言ふのである。ウェブの論爭で「秦教授」は「あつた」派の身方として實に良く機能してゐる。
勿論、この「あつた」派の論法がをかしい事は誰の目にも明かであつて、それを俺は執拗に追求した事があつたけれども、「あつた」派の自身は決して搖るがない。迷信・盲信の類くらゐ、信者の信念が搖るがないものもない。
「あつた」派は、常に支那政府の「30萬人虐殺説」を容認する。その嘘は火を見るよりも明かな事だが、「あつた」派は常に目を瞑り、口を噤んで、批判がましい事を言はないやうにしてゐる。なぜかと言へば、それを言ふと「なかつた」派を利する事になるからださうだ。「南京大虐殺」と云ふ事實を矮小化する事は許されない、と言ふのである。
これは裏を返せば、誇張する事、誇大化して喧傳する事を、「あつた」派は「南京大虐殺」に關しては容認してゐる、寧ろ積極的に支持してゐると云ふ事を意味する。「あつた」派にしてみれば、死人の數が多ければ多いほど、自分逹にとつて有利なのだ。かうなると、「なかつた」派の「嘘」を非難する程に、「あつた」派が眞實に對して忠實であるとは言へない。もちろん、その邊の事は「あつた」派の人は百も承知である。そらとぼけてゐるのである。しかし、「あつた」派も嘘を言つてゐる事は事實で、嘘を言つてゐる事はそれ自體として「なかつた」派の批判を正當化する理由になる。ところが「あつた」派は「なかつた」派の批判を批判として認めない。
そもそも、「なかつた」派の批判は、「あつた」と主張する人々が「0でなければ大虐殺」と云ふ主張の論理のをかしさを指摘したものだ。「いや0だ」とは誰も言つてゐないのであつて、それなのに「あつた」派が「0と言ふのが『なかつた』派の當然の態度だし、その態度は電波以外の何ものでもない、よつて『なかつた』派は電波」と笑つてゐるのは自分勝手過ぎる「論理」で話にならないのだが、しかし「あつた」派は自分の御都合主義を認識できない。
俺は昔、「あつた」派とYahoo!掲示板で論爭して、兔に角こちらがしつこく追求するものだから「あつた」派も數千から數萬の虐殺はあつただろと言ふところまで「妥協」して來た事がある。そこで俺が「なら『南京大虐殺』なんてなかつたんだ。『南京小虐殺』だね」と言つて笑つた事があるのだけれども、「あつた」派の人は一人も笑はなかつた――否、全員が俺の事を嘲笑つた。最う目茶苦茶だと思つた。ちなみにそれ以來の事である、俺が××社員に粘着されるやうになつて、Yahoo!掲示板で何一つ發言出來なくなつたのは。

南京大虐殺」で「日本軍の責任を追及してやるんだ」と鼻息荒い人々は、「30萬人説」を容認してゐるが、實はそのくらゐは言はないと「大虐殺」と言へない事を知つてゐるのだ。いやいや支那政府の嘘は知つてゐる、と、「あつた」派の人の中には釋明する人もゐるかも知れない、が、ならば聞きたい、何千人か、何萬人か――そんな「虐殺」を「大虐殺」と誇張して言ふ人々の事を、あなたは容認するのか。勿論、「あつた」派は、政治主義者だから身方を裏切る事が出來ない、容認するのである。當然の事ながら、その瞬間に「あつた」派は嘘吐き確定である。
とは言へ、まだまだ正直な「あつた」派がゐたとして考へてみよう。「あつた」派は、兔に角「あつた」と言へるものなら言ひ續けるから、追詰めれば簡單に自分の立場を變へる。「何千人でもいい、それでも虐殺ぢやないか」――では尋ねるが、そんな程度の「小虐殺」に、どうしてあなたは關心を持てるのか。アメリカは東京を燒け野原にして、或は廣島・長崎に原爆を落して、日本人を何萬人殺したか。中國共産黨は「文化大革命」で何人殺したか。スターリンは。ポル・ポトは。さて、それら誰一人疑ふ事の出來ない事實として存在する大虐殺の前で、我等が「南京大虐殺」は、今や「南京小虐殺」である、その「小虐殺」に、どうして「あつた」派は多大な興味を抱き、日本人を惡者にして罵倒するのか。俺には全く理解出來ない事ながら、「あつた」派は日本人でありながら日本人を罵倒して快を貪つてゐるのである。

例の喜六郎は、俺個人を標的にして、侮辱を繰返してゐる。全くもつて見上げた根性で、「あつた」派の軟弱に比べれば實に勇氣のある態度と言へるが、泥棒するのにだつて勇氣は要るのであつて、勇氣なんてものに大した價値はなからうと俺は思つてゐる。喜六郎のは、匿名の蔭に隱れてする事だから、だから安心で、そもそも勇氣なんて要らないと言へば要らないのだが、「あつた」派は大體自分の身もとがばれる可能性を考へて、それで利口に振舞つて、個人でなく、集團としての「日本人」或は「日本軍」を標的にしてゐるに過ぎない。
寄集まつて「あつた」派を形成してゐるのも、集團ならば個人の責任は分散されて少くなるから、氣樂になれるからだ。「あつた」派は、何時も「同じ『あつた』派」と聯絡を取合ひ、氣樂に「なかつた」派の惡口を言合つてゐる。「あつた」派の口調が何時も呑氣で餘裕を見せてゐるのも、氣樂だから以外の理由はない。
そして、改めて指摘するが、その「氣樂さ」の下で「あつた」派は「なかつた」派を侮辱し、「日本軍」を罵倒し、「責任を追求」してゐるのである。「あつた」派は敵を人間と看做してをらず、人間未滿の存在と見下してゐるが、人を人と認めないで、氣樂に玩弄する事は、直接、虐殺に繋がる。日本人が支那人を虐殺したのは、意圖的かつ計劃的な大虐殺とは違つて、憎惡でなく愚弄が原因であり、支那人を人間として認めてゐなかつたからこそあり得た事であつて、即ち氣樂さがあつたからなのである。
「あつた」派に、もつと眞面目になつて呉れと言つてゐるのは、「あつた」派が實に氣樂に他人を侮辱してゐるからであつて、もつと他人を人間として認めよと要求してゐるのだ。「あつた」派の人は、本當に危險な事ながら、誰一人として自分の態度の危ふさに氣附いてゐない。

日本人には極めて惡い癖があつて、他人の責任を追及して快を貪るのは當然の權利であり、愚行でも蠻行でもなく、況してや道徳的惡事でもない、寧ろ善事であつて、率先して行ふべきだ――さう信じてしまふ。喜六郎――「ばつさり斬られる通りすがり」を自稱して喜んでゐる變人――は、明かにその種の「眞面目にふざける」典型的日本人であるが、かうしたふざけた態度が、他人を一人前の人間と看做さず、結果として相手の人權を侵害して當然、と云ふ嫌らしい態度になる事は言ふまでもない。ところで、ウェブ上の論戰だから言葉で相手を傷つけるだけで濟むけれども、現實に武器を持つての事だつたら何うか。しかも、侮辱する相手は自分逹より物質的・武力的に劣つてゐる。喜六郎が日本兵で、俺が支那人だつたら、喜六郎は、實に嬉しさうにして、氣樂に俺を殺すだらう。そして「あつた」派もまた「なかつた」派を――。
「あつた」派は、虐殺について自分の事として考へられないのか、と俺に問はれて、文脈から言つて以上のやうな事を俺は念頭に置いて話をしてゐたのだが、それを理解出來ず、或は認識すら出來ず、一般論として「誰でも戰時には虐殺してしまふ可能性があります」と言つた。「あつた」派は相變らず話が出來ない人種だと思つたが、しかし、何と危險な事だらう。もつとも、「あつた」派は、自分以外の「なかつた」派も卷込んで「危險だ」と言ふ事で、自分の責任を輕減させようとしたのかも知れない。無責任な「あつた」派だから、無意識にか意圖的にかはしらないが、責任逃れの論法に走つてゐた事は考へられる。その責任逃れの「誰でも」論が、ますます「南京大虐殺」の、歴史的事件としての意義を低下させる事は言ふまでもないが、それも「あつた」派は認識出來てゐない。「あつた」派は、何を言はれても、「でも人の命が奪はれたんですよ」の一言で濟むと思つてゐる。日本では人の命が一番大事で、それを疑へば脅迫される事はないと言つて良い(「ならお前は死にたいんだな」)。日本人同士だと、それで大體話は終る。大概、現代の日本人は甘えてゐるのである――が、なるほど、俺に他人の甘さを言ふ資格はない。「義」が言つてゐる。日本では、批判者の甘さを指摘してゐれば、自分の甘さを棚に上げてゐる事が出來るのである。「あつた」派は、現代の日本と云ふパラダイスの安樂さの中に埋沒して、至福の時を享受してゐるのである。だが、キリスト教の世界で、パラダイスは失はれたのであつた。あつちの國の連中が屡々眞面目に慣れるのは羨ましい話である。つくづく「あつた」派は極樂蜻蛉だと思ふ。