闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「通りすがり」と名乘る病理

先程「通りすがり」と名乘る人物が人のプライヴァシーを侵害する内容を含む嫌みコメントを殘して行つたので削除した。質問に質問で答たコメントは何うしやうもないが、一往囘答はしたからこちらは誠意は見せた積りだ。勿論、「通りすがり」の方には誠意などある訣がないから、こちらがした質問に今後も一切答へはしないだらう。
今後「通りすがり」やそれに類するハンドルで書き込まれたコメントは問答無用で削除するし、それは當り前の態度だから非難する人間は「通りすがり」の嫌がらせを擁護する立場の人間だと思はれる事を覺悟の上で擁護してゐるのだと認識する。

なぜ「通りすがり」などと不愉快な名でコメントを書けるのか――これは本當に不思議でならない事だが、當人はコメント先の人間を不愉快にさせる事を大變良い事だと心から信じてゐるのだらう。
「通りすがり」と云ふ事をちよつと洒落て「喜六郎」などと名乘つてゐる人間がゐて、俺に粘着して好い氣になつてゐるが、それを見ればそのくらゐの事は推測出來る。喜六郎とは、通りすがりに斬り殺された人物の名で、ぐぐればWikipediaに載つてゐる。
はてなのキーワードにも出てゐるが「通りすがり」と云ふハンドルは大變嫌はれてゐるもので、俺の知る限り嫌がらせを目的にした書込みで使はれるものだ。

普通の人間なら、他人に恥をかかせてやれ、と云ふだけの意圖でコメントを附けるなんて、そんな嫌らしい眞似をする事は出來ない。ところが「通りすがり」を名乘る人間は、屡々耻を書かせて喜ぶ爲に書込む。
先程の「通りすがり」は、書込みの内容から、俺の事を良く知つてゐてずつと粘着してゐる俺のアンチである事が明かだつた。だからこそ俺のプライヴァシーに關はる事を書いて、俺に耻づかしくないのかと迫る事が出來た。もちろん、その論理は手前勝手なもので、眞理でも何でもない、ただ「通りすがり」が俺を責め立てるのに都合が良いだけのものでしかなかつたが、それを百も承知で「通りすがり」は書込んだのだ。それが俺には極めて不愉快だつた。

俺はただ、みんな本を讀んでゐるのか、と訊ねただけだし、しかもその場で、俺はそんなに讀んでゐない、と言つてゐる。ところが、なぜかそれすらも「通りすがり」は氣に入らなかつたらしい。「通りすがり」は俺に本をまともに讀んでゐるのかと嫌みを言つて去つて行つた。
俺の質問をスルーしてひたすら俺を責め立てる――例の「南京大虐殺」は「あつた」と言つてゐる連中が俺を攻撃する時にも使つた手だ。この手の「何うなのと聞かれても無視し、自分の事を棚に上げて、質問した人間を罵る」と云ふやり方、これを極めて多くの日本人が「正しい」と心から信じてゐる。日本人は論理的にものを考へる能力が先天的に缺落してゐるのでないか。少くとも、習慣は缺落してゐるのだらう。

匿名で、しかもその場限りの「通りすがり」と言つて、ただ書き捨てで書いて行つたにすぎないかのやうに裝つて、アンチは嫌がらせをして行く。これは一體何なのか。
アンチにはどうして俺がそんなに氣に入らないのだらうか。
嫌な人格なのは「通りすがり」の方だらう。恐らく嫌な人間だからこそ「通りすがり」と名乘る人間は他人が嫌な人間に見えてしまふのだ。
世の中には感性が常人と正反対の人間が多數棲息してゐる。さう云ふ異常な人間の異常な言動を認める事こそが「言論の自由」だと勘違ひしてゐる人が日本には澤山ゐて、だからこそ「スルーしろ」式の言ひ方が大流行な訣だが、をかしな感性の人のをかしな發言を容認して、普通の人間が迷惑してゐるのを傍觀するのは、眞の意味での言論の自由を守る氣がない事を意味し、或意味未必の故意言論の自由を破壞しようとしてゐるとすら言へる。
「通りすがり」式のハンドルで物を言ふ人々の權利を奪ふ氣はないが、さう云ふ人々の權利が守られるなら、俺の權利はもつと守られて然るべきだ。匿名で物を言ふのが守られるべき權利ならば、實名で言ふのも守られるべき權利だ。
なぜか匿名の人だけが過保護なまでに保護されて、實名の人は「甘えるな!」式の罵倒が浴びせられて潰される事が當り前となつてゐる日本のウェブの現状は餘りにも異常だ。
現在の日本は、まともに論理的にものを考へられる人が少いから、言論の内容でそれが守られるべきものか放置されるべきものか、ちやんと考へられる事がない。ウェブでの言論と言ふと、匿名とか實名とか、そんなレヴェルでシステマティックに檢討されるだけだ――そして、システムの事を考へるのだから大變面白い知的遊戲であつて、多くの人がいいかげんかつ熱心にシステム作りの話をして愉しんでゐる。官僚的に「匿名だから可」とか「不可」とか、そんな單純な割切り方で話を決めて、互ひに尤もらしい事を言ひあつて、充實した議論をした氣になつてゐる。
「匿名」であらうが「實名」であらうが、有益な事を言へば保護されるべきであり、嫌がらせをしたら捕まるべきである――さう云ふ議論が出る事は、日本では先づない。發言の内容を考へるとか、さう云ふ事は、先づされないし、大體「現状」を廣く見て、ありとあらゆる事象から、結論として「良い」と言ひたければ「良い」事だけを採上げ、「惡い」と言ひたければ「惡い」事だけを採上げて、強調して、もつともらしい事を言つたかのやうに見せかける、そんな「議論」が横行してゐる。妥當かつ穩當な意見は、日本では出て來ないし、出ても潰されるし、潰されなくても無視される。

質問をした時には答へる。それなら當り前だ。ところが「通りすがり」は答へない。答へないで、嫌がらせをする。こちらは一方的に誠意を見せねばならない。「通りすがり」は誠意を氣樂に要求する。
言論の自由」を履違へた人間が、日本には普通に棲息してゐる。さう云ふ人間の誤つた言論が、ウェブでは横行してゐるし、非道く目立つてゐる。對策が必要だと俺は十年前から言つてゐるが、日本と云ふ國は官僚の國だから、言論で世の中が良くなる事はあり得ない。
日本は、最う一度戰爭を起し、非道い負け方をして、何處かの國に占領されて、それで初めて世の中が變る事が出來るのでないか。今のまゝだとどんどん惡くなるやうな氣がするし、しかも「惡くなつてゐる」と云ふ自覺すら日本人は持たないで幸せに暮して行つてしまふやうに思ふ。

しかし、何の爲に我々は生き、物を言つてゐるのだらう。幸せになる事でない事は言ふまでもない。幸せになるだけなら、オウムでも創価でも構はない、宗教を信ずるのが一番手取り早いのである。