闇黒日記?

にゃもち大いに語る

基本的な事をきいてみよう

今の若い人は古典とか名著とか呼ばれる本をどのくらゐ讀んでゐるものなのだらうと唐突にアンケート。

聖書。新約は中學の時に讀んだ。舊約は未だに手を着けてゐない。
論語。最近になつてぱらぱらと。コレクション中とか言ふ。
プラトンの對話篇。ソクラテスの辯明とか。中學の時云々。
パスカル。パンセ。プロヴァンシアル。適當にぱらぱらとめくりつゝこの人は天才だなと思つた。
モンテーニュ。エセー。最近になつてぱらぱらとページをめくつてなんだこのおつさんとか思つてゐる。
シェイクスピア。あんまり讀んでない。ハムレットとかマクベスとか。
ドストエフスキー罪と罰しか讀んでゐない。餘談だが作家の日記をウェブ日記のタイトルの元ネタにしたら知らない無知な人に「作家氣取り」と言はれたのでやめた。
ニーチェツァラトストラかく語りき。この人を見よ。××××の人ですね。

最近「南京大虐殺」の事を書いたらまあ熱心にアクセスして呉れた人が多かつたのだけれども、あゝ云ふ政治の話には熱中する日本人がどれだけ文學の方に興味を抱いてゐるのか。
俺が「南京大虐殺」の話に首を突込んだのは、そもそも政治至上主義者の議論をぶつ潰すのが目的だつた。日本人にはあまりにも政治至上主義の人が多い。何でも政治で方がつくものだし、さう云ふ政治的に決着すべき問題こそ議論に價する事なのであり、政治問題を採上げ、敵を叩き、イデオロギーの命ずるまゝに結論を出して、自分の思ひどほりに世間を動かし、「正しい方向」に日本や世界を導いて行かなければならない、さうするのは大變立派な事で、人間はそれ以外にやつてはいけないし、やるなと主張するのは××××である、と、そんな事を心から信じてゐるのが政治至上主義者。政治だけが問題で、それ以外の全ての問題は政治に從屬する――それは異常な發想だが、なぜか日本人は異常だと思はない。政治と言ふと途端に立派な事大人の事みたいな事になつて、政治を軽蔑するのは中二病とかそんな侮辱の文句が出て來る始末だ。
しかし、人間が生延びる爲に政治が必要であるとしても、生延びた上で如何に善く生きるかもまた考察に價する重要な問題であり、我々は政治にのみ關心を懷いてゐる事は許されない。ところがそれが日本人の多くの人には理解できない――そもそも今、政治問題について熱心に語つてゐる人々は、政治以外の問題に論ずべき重大事が「ある」とすら認識する事が出來ないのだ。それは困つた事だ。
歴史上の事件として全く何の價値もない「南京大虐殺」なんて實に低級な事件に、多くの人が熱中し、己が立場を表明して、一生懸命敵を叩いてゐる。けれども、それは實に愚かな事だと俺は思ふ。だから俺は「南京大虐殺」で誰かの責任を問ふとかそんな事は無駄だと言ひ、そもそも「南京大虐殺」と云ふ問題は、議論すべき問題として「あり得ない」と主張して、愚かな論者をぶつ潰さうとしたのだけれども、しかし結局連中は、自分逹のやつてゐる事が極めて崇高で、妨碍を受けたら何んな方法でも良いから反撃して構はない、結果として敵の論者の人格を冒涜して構はない、そればかりか寧ろ積極的に敵の人權を奪ふべきである、と云ふ、甚だしく政治主義的な信念を抱いてゐるから、何を言つても無駄だつたし、ただ俺が危險人物と目されて粘着されるきつかけを作つただけだつた。「たかが虐殺」と言つた瞬間に、俺は連中の敵である――と言ふか「敵以下」そして「人間以下」に貶められて、以來まともに相手をして貰へなくなつた。
なるほど根本的な價値觀のレヴェルで俺は連中を否定したのだから、連中怒るのも無理はないが、しかし何で反省すらもし得ないのだらう。本當に不思議だと思つたのだが、そもそも連中、人間が善く生きると云ふ事について、考へた事もなかったし、思想や宗教と呼ばれるものに觸れた事も無かつたのでないか。古典や名著に、觸れた事もなかつたのだ。だからこそ、文學を徹底的に蔑み、人間に就いて全く無知である自分を誇りに思ひ、政治的に物事を扱つて、非人間的な議論をするのに熱中してしまふ。反省とか云ふ事すらも、彼等にとつては政治運動の妨碍行爲である。
――さう云ふ事を考へない限り、例へば「疑ふ」とか云ふ事をすら、飽くまで機械的に實行してしまひ、個人に對する人格攻撃に終つてしまふ、なんて愚かしい行爲を平然としてしまふ人が續出する現状は、説明出來ない。「言論の自由」と云ふ事を、俺が單純に「言つてゐる」と喜六郎は極附けて嘲笑つたが、しかしあゝ云ふ底の淺い人間が出て來てしまふからこそ、我々人間は自由に物を言つてありとあらゆる發想を「觸れられるもの」としなければならないのでないか。オスカー・ワイルド諧謔のやうに、あゝも言つたり斯うも言つたり、時として矛盾すらも含む、さう云ふ機知とユーモアに滿ちた、さう云ふ言論は、自由になされるべきであり、それゆゑ日本ではその種の言論の自由が必要とされてゐる。ところが日本でその種の言論は、ひたすら否定され、排斥される。政治至上主義者どもにとつて、危險極まるものであり、彼等の價値觀を根本から否定するものだからだ。だが、だからこそ、ますますその種の言論は、引續き日本の社會に必要とされるのである。

この種の、大變危險な言論と云ふもの、これが眞の意味で文學と呼ばれるべきものなのであるが、我が日本國に於て、日本人自身が自ら創作し得るものかは疑はしい。慥かに或種の人々は重大な問題をさらりと指摘し、或は電撃的に指摘してゐる。が、それが日本の多くの人に殆ど影響を與へてゐないのだ。夏目漱石が何處まで日本人の思想に影響を與へたであらうか。吾輩猫で韜晦する漱石が漢字を適當に書いてゐたとか、その程度の事が面白がられるだけである。森鴎外が――鴎外等、脚氣の問題で政治的に彈劾が加へられ、それだけで鴎外の全人格が極附けられ、否定されてゐる始末である。美しいだけの文學でプロレタリア文學に敗北した芥川は未だに教科書に載り、走れメロスの奇矯な文體で太宰は記憶されてゐるに過ぎない。
今は類型化・單純化して話をしてゐるから、個人的に影響を受けたとか言ふ人の反論は受附けない。もつともその種の反論をして「俺は完全に論破した」とか思ふのも日本人。やつぱり日本人は或種の思考法を學び得てゐないのであると、俺が言つたら怒る人もゐるだらうが、会田雄次が指摘してゐるのである。

やつぱり日本人は、西歐の古典や名著から自分逹の知らない事を學ばなければならない。だが、俺もさうだが、案外基本中の基本の本を、讀んですらゐなかつたりする。それは多くのブロガー多くの掲示板ゴロの諸君もさうであらうと思ふけれども、實際、何んなものであらうか。何か妙に偏つた本を基本圖書とか言つて「お前こんなものも讀んでゐないのか」と「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人が威張つてゐたりするけれども、本當に基本的な古典、基本的な名著と云ふもの、諸君は讀んでゐるのだらうか。俺は大して讀んでゐないから、威張れたものではないけれども、さうした事實を認めるくらゐには「傲慢」である。