闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「小林よしのりかぶれ」の病理


反米は、嘗ては左翼の專賣特許だつたが、最近は右翼も參入して、寧ろ反米本家は保守派であるかのやうな顔をしてゐる。まるで反米である事が眞理であるかのやうに語つたのは小林よしのりであり、小林よしのりに尻尾を振つてゐるのだからさう云ふ連中こそ「ポチ保守」だらうと思ふのだが、「アメリカに尻尾を振る事」こそが「ポチ保守」であると「反米保守」の人々は言ふ。

何れにせよ「ポチ」だの何だの言ふのがただの侮辱でしかない事は明かで、さう云ふ侮辱をするのが「正しい」と信じられてしまふのが政治至上主義者の病理だ。(勿論俺の場合、今は混ぜつ返して言つてゐるに過ぎない)慥かに「反米保守」であらうとするか「親米保守」であらうとするかは「その人による」のであつて、ならばどつちも眞理ではなくただの正義である訣だが、相對的な正義であるならば、威張つて相手を侮辱してしまふのは、やめておいた方がよろしからう。

「反米保守」の人々の「論理」は常に「今のアメリカには最う力がない」であり、彼等は「今のアメリカ」が「過去のアメリカ」に比べて如何に凋落したかを強調する。その「凋落」によつてアメリカが決定的に力を失ひ、世界的に見て小國と化してしまつたとは、斷じて言へないのだが、しかし、アメリカを相對化する事で「反米保守」の人々は完全にアメリカを現代社會から葬り去つたかのやうに思ひ込んでゐる。
これは大變危險な發想で、斯うした思ひ上りは決してしてはならない。思ひ上りは嘗て日本人をして對米戰爭に突進ましめたが、それは現在の「反米保守」の人々に反省すべき事として認識されてゐない。
アメリカは依然として強大な軍隊を持ち、世界的に影響力を持つてゐる。些かなりとも彼等を輕視してはならない。

假にアメリカが凋落したとしても、それが日本人にとつて何か意味があると云ふのだらうか。アメリカが凋落したとしたら、それ以上に日本は凋落したのである。全ての「反米保守」の人々が見落してゐる事實だ。しかしこの事實は事實として認めねばらなるまい。凋落したと言つて今のアメリカ人を嗤ふ資格は、アメリカ以上に凋落した現代の日本人にはない。
現代の日本の社會を批判して、「戰後民主主義」と云ふものが「あつた」事を「反米保守」の人々は屡々述べる。ところがアメリカを批判する時、その「戰後民主主義」が「なかつた」かのやうに「反米保守」の人々は振舞ふ。彼等のアメリカ叩きは、餘りにも偉さうだ。「反米保守」の思想が定着し、今の日本は完全に「戰後民主主義」から脱却したとでも言ひたいのか――それは妄想以外の何物でもない。

南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々は、常に自分の事を棚に上げて、ただ他人の責任を追求して好い氣になつてゐる。それは既に述べた事だ。
一方で、「反米保守」の人々もまた、常に自分逹・日本人の事を棚に上げて、他人のアメリカを叩いて好い氣になつてゐる。
彼等は本當に世の中を良くしたいのか――俺は疑つてゐる。左にしても右にしても、批判者を見下し、人間以下と看做して、侮辱を加へるパターンが見られる。彼等は政治的な議論をして、自分逹が如何に知的であるかを常に誇つてゐる。「自分の事を棚に上げる」「他人の行爲を相對化して價値を引下げようとする」――眞面目であるにしては甚だ馬鹿馬鹿しい振舞ひではないか。論じてゐる「當人」は、右でも左でも眞劍の積りだから、俺の批判はただの揚げ足取りか何かにしか見えないだらう。けれども、一度冷靜になつたら何うか。
「たかが南京大虐殺」「たかが反米」――さう云ふ物の見方をし始めたら、今ウェブのあちこちで(或はジャーナリズムの世界で)行はれてゐる政治の論議がどれも非道く低級なものである事はすぐに認識されるやうになる。その時、「さう思つてはイケナイんだ!」とか、變な新興宗教の信者みたいに思つて、政治至上主義者に囘歸してしまふか。俺としては、政治大好きの日本人は、寧ろ政治そのものを相對化する事を必要としてゐると思つてゐるが、しかし、何時までも政治を神聖なものとしておきたい人もゐるだらう。日本人は永らく選擧權を持つてゐなかつた。
基本的に日本は後進國なのである。平民が選擧權を手に入れて、そこで政治が神聖化された。今、政治の事をいろいろ述べて、「大人になつた」氣になつてゐるのは、結局のところ「戰後民主主義」の「たまもの」なのである。
そこで敢て政治をそれなりの地位に留めておかうと考へるか。或は依然として政治を崇め奉らうとするか。なるほど、「その人による」のだらう。