闇黒日記?

にゃもち大いに語る

JTの問題――モラルは目に見える場所だけのものか

例によつて非常に個人的な話だから云々。以下俺の言つてゐる事に一般的な説得力のある話は全くナシ。それからうちは昔からぐだぐだ。

JTの子會社が中華人民共和國から輸入した餃子の問題。農藥が入つてゐたとかゐないとか。關聯してインサイダー取引があつたらしいとか云ふ話。
何が問題かと言へば要はJTと云ふ企業が抱へてゐる社員に問題がある。あそこに惡質な社員がゐる事は事實であつて、その被害に俺も遭つてゐる。もう八年近く經つが、俺はYahoo!掲示板でJT社員に嫌がらせをされた事がある。俺は當時から實名主義者であつたが、社員は匿名で俺に粘着し、俺が發言する度に議論を妨碍しにかかつた。それをYahoo!に訴へた事もあるが、Yahoo!は俺が實名をばらしてゐる爲に、俺の權利なんてものを守る氣はさらさらないらしかつた。俺は仕方なく某所で判明した粘着のリモートホストをばらして自分の權利を守らうとしたが、Yahoo!は社員の匿名である權利のみを擁護した。最終的にYahoo!は、JT社員の粘着行爲を是認し、粘着被害に遭つてゐた俺のIDを削除して方をつけた。以來、俺はYahoo!が匿名の權利のみを保護し、實名の人間の權利を全く守らうとしない、惡質なネット企業であると認識してゐるのだがそれは餘談。
JTには間違ひなく惡質な社員が存在する。俺の事を保守主義者かネトウヨだと思つてゐる連中は俺が何時でも例外ナシに大企業を擁護し政府を支持するものと極附けるだらうが、俺はちやんと企業を非難するし政府も非難する――あーJTは最う專賣公社ではないか。まあ似たやうなものだ。あそこは御役所で、だから社員が未だに威張つてゐるのだらう。モラルも糞もないから業務時間中にYahoo!掲示板で無職の人間を侮辱したり、インサイダー取引をやつたりして、愧ぢるところがないのだらう。大概、あゝ云ふところの社員は腐つてゐるものだ。と言ふか、嫌な社員はその邊にごろごろ轉がつてゐるのだし、さう云ふ連中を企業は有能だと言ふ。金儲け第一主義の日本の企業にモラルがあつたためしはない。

さて、大體今の日本の世の中は、政治家や企業の人間に清潔さを要求する。當然の事ながら、それはただの風潮であり、ムードに過ぎない。けれども、多くの日本人がそんな事は百も承知なのであり、風潮やムードには迎合するのが正しいと心から信じてゐるし、自分逹の行爲は立派なもので正義のものであると確信してゐるから、一齋に何かを非難する事を止めはしない。
だが、それで世の中は絶對に良くならない。企業の人間も政府を動かす政治家も、全て金儲けや權力掌握が目的であるのだから、清潔であるのもただのポーズにしかならない。企業は常に惡質な社員を有能な社員と稱して抱へ、國會議員は討論と稱して侮辱の文句の投附け合ひと馴れ合ひとを演じ續ける。そこでは、表の顏と裏の顏の遣ひ分けが全く自然に行はれる。そして、裏で日本人は惡い事をして、それがばれないでゐる事を良い事だと信じ、それが露見するとばらした人間を惡人と極附けて潰さうとする。それらは全て裏の方でなされる。
表の場で、日の當る場所で、日本人は兎角取り澄ました顔をして世間の人に受容れられようとする。その裏で、日本人は惡逆非道の事をして、ひたすら利益を貪るけれど、その事を多くの人がためらはない。ばれさへしなければ何んなに惡い事をして利益を貪り、快を貪つても構はないと思つてゐるのだ。だからこそ日本で匿名文化があつては困るのだが、日本人は蔭に隱れて惡い事をしても何の問題もないと信じてゐるから、いろいろ理由をつけて匿名文化を守らうとするのだ。
表と裏の遣ひ分け――これは何處の人間社會でも「ある」事だ。成程それは事實である。けれども、その遣ひ分けを認めるならば、何故我々は全てにおいて清潔である事を要求するか。假に企業の人間なり政治家なりが清潔である事を義務とするならば、我々は共通の價値觀として人間が一般に清潔であるべき事を信じてゐなければならないのでないか。ところが日本人は全員、日の當る場での公的な顏と、私的な場での卑怯な振舞ひとを、自然に遣ひ分けて、或はそれを巧く遣ひ分ける事を能力を測る基準としてゐる。だからこそ、蔭の惡事が露見すると、その人間の無能さが非難される理由になる。それは飽くまで有能無能のプラグマティックな價値判斷で、道徳的な判斷ではない。それが大問題なのだが、我々にその自覺はない。
我々日本人は、常に唯物的な價値判斷を行なつてゐる。それはマルクス主義的な意味ではなくて、逆に我々の價値判斷は屡々封建的である。日本の場合、封建的とは、江戸時代の制度を見れば判るやうに、常に私利私欲に基いた社會のありかたであり社會における人のあり方であるから、呉智英が幾らその「良い點」を強調しても、窮極的には決して褒められたものではない。と言ふより、私利私欲の貪欲な追求を我々は「善い事」「正義」と看做し、それによつて、近代的な風を裝ひ、日本の近代化を達成して積りになつたのであつた。それは自己欺瞞であるが、欺瞞に欺瞞を重ねる事で、我々はどんどん惡辣になつて來た。政府や企業に清潔を要求してゐるのは、その惡辣さの顯はれの一部である。
例の「南京大虐殺」論爭でもさうだが、日本人はひたすら他人を罵り、自分の事を棚に上げる。その非を指摘されても、日本人は常に「敵の惡」を相對化する事は許されないとして、自分の内部の惡を見ないで濟まさうとする。これも表と裏の便利な遣ひ分けの一貫であるのだが、何でも「結果として良いなら全て良い」と云ふ發想に基くのである。そしてその日本人の「良い」とは、これがまた極めて曖昧で、イデオロギーの命ずるところ、欲望の命ずるところ、その他が入交じり――しかし何處まで行つても道徳的な價値觀とは無縁なのである。

我々日本人は、一般に道徳的な價値觀を信じてをらず、道徳的に極めて鈍感である。一方、社會正義や金儲けには、大變敏感である。
企業人や政治家に清潔を求めるのも、結局のところ、企業の利益を確保する爲、或はイデオロギーの命ずるところに據るだけである。或企業に屬してゐない人間であつても、何處かの企業が巧く收益を上げる事が出來れば感嘆するし、それを立派な事・素晴らしい事と言つて賞贊する。餃子を喰つて被害に遭つた當事者でなくとも、世の中の風潮で誰か・何處かを叩くのが今の正義であると判れば、多くの人は一齋に叩きに走る。ところが、そこで要求される清潔は、動機なり何なりのレヴェルでの高潔さではなく、結果として清潔である事なのだ。
俺が今した指摘に對し、それの何が問題かと多くの日本人は言ふのでないか。結果として安全な餃子が食べられれば我々は良いのであると。別に企業の人間が高潔な存在となり、或は政治家が全き聖人君子となつて地味に働く事を、我々は望んでゐない。ところが、それで我々は何うなると言ふのだらう。
ポーズとしての清潔を要求するのでは、我々日本人は全體としてモラルが低下しても何の不思議もないのである。今、餃子の問題で、中華人民共和國側は、調査をし、問題がない、と言張つてゐる。これを日本人は嘲笑してゐるけれども、俺にしてみれば連中の政治的な場における政治的な誘導は、道徳的な面が全くない以上、大變優れた政治と道徳の遣ひ分けだと思はれる。「南京大虐殺」(連中の用語に據れば「南京大屠殺」)も、結局のところ、連中は政治的な驅引きの材料に使つてゐるに過ぎない。少くとも、政治家はその邊を承知してゐる。だからこそ、一般市民が本氣になつて日本憎しで反日運動を起すと、困つてしまふのだ。ところがそれを嘲笑する日本人は、驅引きも何も考へなしで、金儲け主義も道徳も一緒くたにして、ひたすら「清潔」と言つて、要求をぶち上げて、騷いでゐるだけである。
政治の場で政治的な物の言ひ方をする事は、道徳が重視されるべき場で道徳的である事の障碍にはならない。ところが、日本のやうに、道徳的なポーズを政治に要求すると云つた事を平氣でやる國で、實際の道徳は常に閑却される。沒道徳である事は、日本では案外「良い事」と看做されてゐる。それは大變な問題であるのだが、我々は價値觀の問題を常に輕視するから、問題として認識すら出來ない。
だが、道徳と云ふ事がわからず、價値觀の事が認識出來ないのでは、道徳的な行爲は日本人には無縁と云ふ事になる。我々は、屡々、本當に屡々、利益を度外視した行爲を出來ず、誰も見てゐないところで立派に振舞ふ事が出來ない。「良い事をする」と云ふ概念が、日本では常に「對外的に」であり、或は「金錢的に」であるから、個人の内部において行爲を決定する際の價値判斷が常に利己的である事になる。ところが、利己的である事はそれ自體として道徳的な惡事である。はつきり言ふと、日本人は非常に屡々道徳的な惡事を認識出來ない。認識すら出來ないのならば、行爲があつてもそれは最早道徳的とは言ひ難いが、實は道徳的でない行爲は徳目の定める惡事をするよりも遙かに道徳的に惡い。我々は無自覺に「嫌な事」をするのである――それは「惡い事」ではない。
我々がする或種の「嫌な事」は、當人、全く無自覺であり、或は意識して殊さら嫌らしくする事がある。それを止める術が全くない事が日本では極めて多い。それは問題であるのだが、問題とすら認識されない。
露見した「惡い事」、それを我々は問題と「する」だけである。解り難い言ひ方なのは百も承知。何う説明しても解らない人には解らない話だ。しかし、問題にしないで良いと思つてゐる領域での我々の行爲、其處において我々が自覺的になり意識的にならないと、我々のモラルは維持されない。我々日本人はモラルをただ「露見した惡」の領域でのみ問題にするが、實は露見しない「裏」での行爲でこそモラルは問題にしなければならない。我々日本人に、誰も見てゐない場所での我々人間を律するものは「ある」か。我々は考へる前に、先づ意識する事から努力しなければならないのだが、しかしそれは飛んでもなく困難な事である。