いろいろむかつくこと
最近あちこちのブログで、アンカーポイントの上にマウスをかざすとリンク先のサムネイルが表示されたりする現象が頻發してゐるのだけれども、あれ、うざつたくないか。俺なんかはWindowsのタスクの切換でも、一々ウィンドウのサムネイルが表示される方式が嫌ひで嫌ひで仕方のない人間なのだけれども、ブラウズしてゐて文章を讀んでゐると、テキストの上に餘計なウィンドウが勝手に作成されて文字を隱すのを見ると、××××したくなるくらゐ頭に來る。××××は讀者にて適當に補完されたし。
タスクの切換は早く切換へられる事が一番重要なのだから一々畫像を作成されると僅であつても餘計な時間がかかるから迷惑だ。文章を讀む際には文章を讀める事が一番重要なのだから、文章を隱すやうなものは全て邪魔だ。何れも餘りにも當然の話で、誰も反論しない筈だ。全て事態を滯らせるものは邪魔である。ところがこの事が、多くのプログラマに解らないし、サイト制作者にも解らない。なぜか。それは、彼等プログラマ諸氏サイト制作者諸氏が、「何かする」のは面白い事であり、面白い事は良い事だし、自分が面白がつてゐる事は全てのユーザ・全ての閲覽者が面白がる筈の事だし面白がるべき事だと心から信じてゐるからだ。
タスクの切換は早く切換へられる事が一番重要なのだから一々畫像を作成されると僅であつても餘計な時間がかかるから迷惑だ。文章を讀む際には文章を讀める事が一番重要なのだから、文章を隱すやうなものは全て邪魔だ。何れも餘りにも當然の話で、誰も反論しない筈だ。全て事態を滯らせるものは邪魔である。ところがこの事が、多くのプログラマに解らないし、サイト制作者にも解らない。なぜか。それは、彼等プログラマ諸氏サイト制作者諸氏が、「何かする」のは面白い事であり、面白い事は良い事だし、自分が面白がつてゐる事は全てのユーザ・全ての閲覽者が面白がる筈の事だし面白がるべき事だと心から信じてゐるからだ。
例によつて價値觀の問題で、プログラマやサイト制作者は、無意識のうちに自分の信ずる價値觀を他人にも押附けてゐる。現實に多くの價値觀が屡々無意識のうちに押附けられてゐる状況で、プログラムやウェブのインタフェイスもまた全く同じ状況にある。價値觀の問題は、殊に日本では全く意識されない問題で、相對的な價値でしかないものが屡々「アプリオリに正しい」と信じられてゐる。だからこそ全く無反省に他人を侮辱して好い氣になる喜六郎のやうな人間が出現し、喜六郎の取卷き連のやうな氣持ち惡い連中が出現する訣だが、あゝいつた何うしやうもない連中でなくとも、我々は無意識に無反省に自分のやつてゐる事を正當化する傾向がある。
プログラマやサイト制作者は割と理系の人間が多くて、客觀的に自分を眺められる筈だと信じられてゐる。實際にはそんな事あり得なくて、自分のやつてゐる事を「面白い」と云ふ主觀的な餘りに主觀的な物の見方で肯定してしまふし、そこに反省しない態度が出現する。ただイデオロギーが入り込まないし、やつてゐる事が無機的な行爲だから人と人との間の問題にならないだけで、しかし、だからこそ、直ぐにトラブルになる「文系的」な問題以上に厄介だと言ふ事も出來る。もちろん、人間同士のトラブルの方が切羽詰つた問題になり勝ちで、だからこそより重要であるから、價値觀の問題にしても上に述べたやうな「理系的な問題」よりずつと重要なのであるが、屡々理系の人間が文系の人間を見下してゐる現状、彼等の問題を問題として指摘しておく事に多少の意味はあるだらう。
プログラマやサイト制作者は割と理系の人間が多くて、客觀的に自分を眺められる筈だと信じられてゐる。實際にはそんな事あり得なくて、自分のやつてゐる事を「面白い」と云ふ主觀的な餘りに主觀的な物の見方で肯定してしまふし、そこに反省しない態度が出現する。ただイデオロギーが入り込まないし、やつてゐる事が無機的な行爲だから人と人との間の問題にならないだけで、しかし、だからこそ、直ぐにトラブルになる「文系的」な問題以上に厄介だと言ふ事も出來る。もちろん、人間同士のトラブルの方が切羽詰つた問題になり勝ちで、だからこそより重要であるから、價値觀の問題にしても上に述べたやうな「理系的な問題」よりずつと重要なのであるが、屡々理系の人間が文系の人間を見下してゐる現状、彼等の問題を問題として指摘しておく事に多少の意味はあるだらう。
多くの理系人間が、常に論理的に振舞ふ――遊びさへ知的である。ところが、知的であらうが何であらうが、樂しんでゐる時點でその行爲、遊びは最早人間的な行爲である。多くの理系人間が「知的」「論理的」その他の表現に欺されるのであるが、遊びである時點でそれは文系的考察の對象であり、最早理系的なものではあり得ない。そもそも、知的遊戲は、知的である事が本質ではなく、遊戲である事が本質である。「面白いギミック」は、ギミックである事が本質であるのでなく、面白い事が本質である。そして、面白い事は餘計な事であり、ここに餘計な事が入り込んで良いか何うかが、理系の價値觀のみならず、文系的價値觀に基いて、檢討すべき事柄となる理由がある。
デザインは、既に正字正かなユーザのアンテナではなくデザイナーのアンテナと化したはてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナ
http://a.hatena.ne.jp/funaki_naoto/
を見れば判る通り、理系的と言ふより文系的なものである。もちろん、理系文系の分類は、所詮大學を區分する文部省その他の官僚が必要とするものに過ぎず、或は企業が學生を採用する爲に取敢ずもつともらしい理由を附けるのに必要とするものに過ぎないのであつて、一般に一々區別して考へるべき理由はない。けれども、結局は感性に基くものであり、そこに這入り込む知性と言ふものも、非人間的ではあり得ない、飽くまで人間的なものである。
問答無用で表示される、昨今ブログで流行るもの、それが屡々デザイナー的サイト制作者、デザイナー的プログラマによつて安易に生み出されたものである事は、指摘しておく必要がある。實は、この種の何々的何々と云ふ中途半端な存在者が、多くの場合、深く考へないでいろいろ「面白いもの」を生み出し、それを他人に押附ける事になる。
專門家であつても、現在のウェブは黎明期せいぜい過渡期にあり、現在のウェブの專門家は皆、素人に毛が生えた程度の存在者である。サイト制作において、デザインとHTMLのソース書きとは未分化であり、のみならずJavaScriptだのPHPだので何かを書く行爲も未分化である。斯くして我等ウェブサイト制作者の殆どが中途半端で、常に好い加減にサイトを作つてゐる現状がある事は、我々の殆どが全く意識してゐないし、意識してゐる人は、しかし、自分が意識してゐる事を以て自らが專門家である事の決定的理由であると信じて疑はない。そして、重要な事だが、日本では「自分で何かを作つてゐる」事だけがその人の權威を保證するのであり(例の「無職に發言權はない」式の「義」の攻撃はその「常識」に基く)、批評の專門家は「あり得ない」事とされる。ウェブの議論において、インタフェイスの專門家は、デザイナの反論に再反論する事が許されない。インタフェイスを批評する人間が立派なインタフェイスのサイトを既に作つてゐる事が、その批評家の權威を保證するのであり、如何に論理的であつてもその人が只の批評家でしかないのであれば全く權威は認められない。一方のデザイナは、兎も角もかっこよくおもしろいサイトなりギミックなりを作つてゐれば、それだけで權威者である。
これ程非道い状況もあり得ないと言はざるを得ないのだが、日本人が日本人の常識を疑ふ事は極めて困難であり、逆に、その常識を惡用して自分に都合良く世の中を動かさうと考へる人間だけがどんどん増える傾向にすらある。斯くして、面白いギミックは増え續け、嫌がらせは巧妙になり、ウェブは不便になる。ところが、面白がつてゐる本人は、別に不便になつたと思はないのである。話は決して噛合はない。誰が迷惑を蒙るのか。樂しまない人間だけである。馬鹿にならねば損と云ふのが今のウェブでの個人の行動原理だが、一方、企業サイトは糞が頭に附くほど眞面目にならないと許されないのであつて、支配者と被支配者の懸隔が開く以上に個人と公人の懸隔は開くのである。ウェブに限らず、現在の現實社會は、個人と公人の間に無限の懸隔が生じつゝあり、その爲に匿名の權利は強調されるのだが、全ての人間にとつて甚だ不幸な事でないか。
デザインは、既に正字正かなユーザのアンテナではなくデザイナーのアンテナと化したはてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナ
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を見れば判る通り、理系的と言ふより文系的なものである。もちろん、理系文系の分類は、所詮大學を區分する文部省その他の官僚が必要とするものに過ぎず、或は企業が學生を採用する爲に取敢ずもつともらしい理由を附けるのに必要とするものに過ぎないのであつて、一般に一々區別して考へるべき理由はない。けれども、結局は感性に基くものであり、そこに這入り込む知性と言ふものも、非人間的ではあり得ない、飽くまで人間的なものである。
問答無用で表示される、昨今ブログで流行るもの、それが屡々デザイナー的サイト制作者、デザイナー的プログラマによつて安易に生み出されたものである事は、指摘しておく必要がある。實は、この種の何々的何々と云ふ中途半端な存在者が、多くの場合、深く考へないでいろいろ「面白いもの」を生み出し、それを他人に押附ける事になる。
專門家であつても、現在のウェブは黎明期せいぜい過渡期にあり、現在のウェブの專門家は皆、素人に毛が生えた程度の存在者である。サイト制作において、デザインとHTMLのソース書きとは未分化であり、のみならずJavaScriptだのPHPだので何かを書く行爲も未分化である。斯くして我等ウェブサイト制作者の殆どが中途半端で、常に好い加減にサイトを作つてゐる現状がある事は、我々の殆どが全く意識してゐないし、意識してゐる人は、しかし、自分が意識してゐる事を以て自らが專門家である事の決定的理由であると信じて疑はない。そして、重要な事だが、日本では「自分で何かを作つてゐる」事だけがその人の權威を保證するのであり(例の「無職に發言權はない」式の「義」の攻撃はその「常識」に基く)、批評の專門家は「あり得ない」事とされる。ウェブの議論において、インタフェイスの專門家は、デザイナの反論に再反論する事が許されない。インタフェイスを批評する人間が立派なインタフェイスのサイトを既に作つてゐる事が、その批評家の權威を保證するのであり、如何に論理的であつてもその人が只の批評家でしかないのであれば全く權威は認められない。一方のデザイナは、兎も角もかっこよくおもしろいサイトなりギミックなりを作つてゐれば、それだけで權威者である。
これ程非道い状況もあり得ないと言はざるを得ないのだが、日本人が日本人の常識を疑ふ事は極めて困難であり、逆に、その常識を惡用して自分に都合良く世の中を動かさうと考へる人間だけがどんどん増える傾向にすらある。斯くして、面白いギミックは増え續け、嫌がらせは巧妙になり、ウェブは不便になる。ところが、面白がつてゐる本人は、別に不便になつたと思はないのである。話は決して噛合はない。誰が迷惑を蒙るのか。樂しまない人間だけである。馬鹿にならねば損と云ふのが今のウェブでの個人の行動原理だが、一方、企業サイトは糞が頭に附くほど眞面目にならないと許されないのであつて、支配者と被支配者の懸隔が開く以上に個人と公人の懸隔は開くのである。ウェブに限らず、現在の現實社會は、個人と公人の間に無限の懸隔が生じつゝあり、その爲に匿名の權利は強調されるのだが、全ての人間にとつて甚だ不幸な事でないか。
話が廣がりすぎて收拾がつかなくなつたのでここで御終ひ。