闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「確認すれば十分」と云ふ發想の危險である事

Macの世界は「信者」の人にとつて大變素晴らしいものと思はれてゐるけれども、案外Mac發のソフトウェアに危險なインタフェイスのものがあつて、屡々被害を出してゐる。その典型がファイルメーカープロで、これ程使ひ易いデータベースソフトもないけれども、これ程データを間違つて消し易いデータベースソフトもない。

要は「レコードを削除すると直ぐに消える」のと「一つのレコード削除と全レコード削除とがメニューの近くに配置されてゐて紛らはしい」のとが問題で、これだけでファイルメーカーは危險なデータベースソフトと言つて良い。


もちろん、データ削除をユーザが指示した時、ファイルメーカーは「よろしいですか」と確認のダイアログを表示する。

一般に、危險な操作をユーザがしようとした時、アプリケーションはダイアログで確認を求める。なるほど、ユーザが確認すれば大丈夫と云ふ訣だ。が、ユーザにしてみれば、消したい時に一々確認されるのは煩はしい事だ。煩はしい事をユーザは嫌がる。當り前の話だが、しかし、さうなると、確認のダイアログは屡々機械的にOKボタンを押すだけの爲のものに成下がる。
所詮ダイアログボックスは、ユーザから「なぜ容易にデータを消せるやうにしたんだ」とか文句を言はれた時、プログラマが責任を囘避する爲に入れられたものに過ぎない。
ダイアログは、プログラマが本當にユーザの事を考へて作つたものではない。多くの場合、プログラマの責任囘避が目的で入れられたものだ。メッセージが投げやりで解り辛い事を見れば判る。Windows標準のダイアログボックスが典型で、それらはDLLで供給され、使ひまはしである。メッセージは多くの場面で使ひまはせるやうに抽象化され、大變解り難い。ユーザは最う、ダイアログボックスのテキストを見ないで、ただ命令を實行させる爲にひたすらOKボタンを押す習性を身につけてゐる。
とは言へ、これらの事は既に何度も指摘された事だ。

ファイルメーカーの異常なところは、データが即座に削除され、ファイル自體にも反映される事だ(ファイルメーカーとか、ファイルとか、用語が實に解り辛いが、かう云ふ紛らはしい事になるから俺はファイルメーカーと云ふ名前が嫌ひだ、閑話休題)。別にそれでもいいではないかと言ふ人もゐるだらうが、俺は今、單に「危險」の觀點からファイルメーカーの動作を非難しようとしてゐるのではない。
當初Macで動作するプログラムとして作られたにもかかはらず、ファイルメーカーがいきなりデータを消す仕樣になつてゐる事がをかしい、と言ひたいのだ。
全てのMacintoshユーザが知つてゐる事だが、Macではファイル削除を指示するのに「ゴミ箱に入れる」と云ふ動作をする。ゴミ箱に入れればファイルは削除される準備が出來る。重要なのは、この動作で、ファイルはまだ削除されない、と云ふ事だ。
このワンクッションを置く事で、ユーザはファイル恢復の機會を與へられる。Windowsでもこの仕樣が眞似された。眞似されたのならMacは優れたインタフェイスを持つてゐると價値を評價された事になる。
ところが、このMacを使つてゐた筈の連中が作つたファイルメーカーで、データはいきなり削除される。ダイアログボックスでの確認を經てはゐるけれども、やつぱりいきなり削除されると言つて良い。ワンクッションがなく、即座に削除されるのだから。
ファイルメーカープログラマは、Macのユーザであつた筈だが、なぜかゴミ箱の概念をファイルメーカーに持込まなかつた。これは重大な問題だと思ふ。實際、Microsoftプログラマが良く理解してゐて、Accessなんかでもデータは容易に削除されないやうになつてゐる。

本質的に、全てのコンピュータはデータベース的な要素を持ち、ファイルを保存するとは、ファイルのデータベースを作る事だ。データベースソフトは、ファイルシステムと云ふデータベースの中で、さらに一つのファイルの中に世界を作つて「便利」さを追求したものに過ぎない。ところが、ファイルシステムの方がまだ安全で、アプリケーションとしてのデータベースの内部の方が危險と云ふのが、ファイルメーカーだ。こんな馬鹿な話はないが、世の中、馬鹿な話は幾らでもある。そして、さう云ふ馬鹿な事を改善する事で、世の中は良くなる筈。

俺自身がやらかした訣ではなくて目の前の某さんがやつて半日分の作業が全部ぱーになつてゐたから書いた。いまだにOS 9上の古いファイルメーカーを使つてゐる人だけれども、調べたら最新ヴァージョンでも仕樣が變つてゐないと解つて愕然とした。散々文句を言はれて非道い仕樣だと思はれてゐるのに絶對直さないと言ふのは、ちよつと何うかしてゐると思ふ。


で、この種の「確認」「ダイアログ」を、ウェブサイトを作る人も安易に使つてゐるのでないか、と云ふ話は良くあるので、今囘はそれだけの話にはしない。
例の株の誤發注をやらかした事件、あれも「確認」のメッセージが出たのでないかと思ふのだが――もしかしたらさう云ふセーフティ機能が無いシステムを使つてゐたかも知れない、株なんかでは、一刻一秒を爭ふ事態もあり得る。あれなんかは、「確認」の有無よりも、入力欄の分かりづらさが問題を惹起こしたのだらう。
ファイルメーカーでも、一つのレコードを削除するのと、全レコードを削除するのとは、メニューの至近距離にある。これらを混同してしまふ事は、あり得る。
上のリンク先では、キーボードショートカットなら間違はない、と、如何にもMacらしい解決策を提示してゐる。Macの嫌らしいところは、斯う云ふキーボードショートカットの存在にある。キーボードショートカットの問題――これも散々指摘されてゐる事だけれども、キーボードショートカットは、記號的で、覺えなければ全然解らない、使へない。Macの人は「メニューが使ひ辛い」と云ふ指摘に何時も「キーボードショートカットがある」と答へて來た。これで十分説明責任は果したと多くのMacユーザが思ふ訣だけれども、要は言ひ訣は出來ると言ふだけの事に過ぎない。キーボードショートカットを知らない人は、何處からか知識を引出さなければならない。この手間は大變な手間だが、既に知つてしまつたMacユーザは大抵手間を手間とも思はない。多分、知らない人に教へる快感を味はつて、毎度良い氣分なのだらう。だが、かう云ふ「判り辛さ」は今や批判の對象となりつゝある。我々は今、「インタフェイスの問題」を意識し始めてゐる。Macのインタフェイスも、今や問題とされるべき時期になりつゝあり、キーボードショートカットでと云ふ解決策も批判の對象とされる必要がある。
「信者」が常に信奉するものの正當化をはかり、批判に嘲笑で應へると言ふのは、「信者」を攻撃する人間の常套句だから、それ自體として意味は無い。けれども、常にMacのインタフェイスがWindowsのそれよりも優れたものであると語られる世の中の傾向が一般にある事は間違ひない。「松原信者」がマイナーであるのと、「Mac信者」がマイナーであるのとでは、同じマイナーでもレヴェルが違ふ。Macを知らない人は、まあ、あんまりゐないのであり、さう云ふ世の中で、未だにMacのインタフェイスは優秀と云ふ「信仰」が「ある」事は否めない。だからこそMac批判は今こそあつてよろしいと言ふ事が出來よう。通念の打破は必要であり、俺は少くともMacのインタフェイスが今一つに感じられ、Macは使ひづらいと思つてゐる。WindowsにもWindowsなりの良さがあると云ふ事を俺は信じてゐるのだが、しかし、何れにしても我々は個別の部分で個別のプログラマが作つてゐるシステムをトータルのシステムとして絶對的に評價する事は出來ない。Windowsは或部分でMacを遙かに上囘つてゐると俺は思ふし、さう公言するけれども、それを受容れないMac信者がゐたとしたら、それはをかしいと言はざるを得ない、と、さう云ふ事だ。大した事ではない。

MacにしてもWindowsにしても、プルダウンメニューが存在し、ダイアログボックスで確認する、と云ふパターンは一緒だ。これは一般的なインタフェイスとして、Linuxのウィンドウ環境でも採用されてゐる。マウスをベースにしたシステムでは何うしてもさう云ふインタフェイスにならざるを得ないのだらう。けれども、これを反省してみる事は、必要でないか。
ブラウザで見える「ぺーじ」のインタフェイスの良し惡しを、我々はよく問題にする。けれども、何れにしても我々は、MacWindowsと云ふシステムの上で、マウス操作を基準に、ブラウザでの見ばえを考へてゐる。キーボードや音聲認識について、我々は漸く考へ始めたばかりだ。
ところでこのキーボード操作、音聲認識による操作は、Macのキーボードショートカットによる操作と、類似してゐないか。ならば我々はこれらの操作方法の問題點を考へねばならない事になる。ユニヴァーサルな考へ方と云ふもの、これは最近出て來た新しい問題意識のやうに思はれてゐる。けれども、新しい思想も案外二十年くらゐ前既に問題になつてゐた事を忘れて、改めて論じようとしてゐるだけであるものなのかも知れない。ドッグイヤーと言はれ、數年前の事が安易に忘れ去られる技術の世界で、我々は知識の蓄積と經驗の活用を忘れてしまつてゐるのでないか。
俺は割と當り前の事を言つてゐるのだけれども、案外當り前過ぎる事は意外と省みられないものだ。