闇黒日記?

にゃもち大いに語る

日本の政党には哲學がない事

今フジテレビで議員の人が出演して討論をやつてゐて、ガソリン税だの何だのと言つてゐるけれども、これは全く意味がない。

自民党の人と民主党の人が何とか税を何うする何うしないと言つてゐる。觀てゐる人も家やその他の場所で何だかんだと言ふ。ブログでも意見が盛に主張される。2ちゃんねる邊では言爭ひが行はれる。全部ナンセンスだ。

自民党の人が何とかと言ひ、民主党の人が反對する。これをTVでやる。ところでその主張、何んな事が根據になつてゐるか。TVでやれば誰かが尋ねるが、雙方とも、それらしい事を言ふだらう。けれども、それが自民党なり民主党なりの據つて立つ如何なる理論に基いた主張であるのか、全ての議員は説明しない。そして、テレビの司會者、ゲスト、その他の人々は全員、一人の例外もナシに、その邊の部分を突込んで聞かない。
何となれば、自民党の議員も、民主党の議員も、自分達の主張が、自分逹の當の據つて立つ理論や理念と何の關係もない事を知つてゐるからだ。そもそも、自民党民主党も、理論や理念は持たない。
我が日本國に、理論や理念に基いた政党は、社民党共産党、或は公明党がある。然るに、これらの政党の中で、全ての主張の背景に曲りなりにも理念なり理論なりの裏づけを持つのは、社民党だけだ。共産党は今やマルクス主義の理論をただ党員相互の驅引きの際にのみ用ゐるに過ぎない。公明党は、創価学会の政党だが、日本に於ては政教分離が原則である、と云ふ、宗教の命令よりも強い政治の命令に從つて、自分逹は学会と無關係である、と主張し、さう裝つてゐる。のみならず、そもそも、学会の理念と、公明党の主張とは、大體無關係で、ただただ現實的で、わづかに「ひとにやさしい」氛圍氣を醸し出さうとしてゐるに過ぎない。

このやうな状況を、日本人の多くは、をかしな事だと認識しない。現實的なのは良い事だ、そのくらゐの感想を抱くだけだ。理念や理論があるのは却つて危險だと、その程度の事を尤もらしく言ふ人がゐるくらゐである。
現在、自民と民主が二大政党のやうになつてゐる。二大政黨制そのものにも實は問題がある。今は委しく論じないが簡單に述べると以下の通り。アメリカの状況を見れば分る通り、二大勢力が存在すれば、勢力が拮抗する可能性が高くなる。その時、政權は不安定になり勝ちである。アメリカの場合、強大な権力を持つ大統領を置いてゐるから何とかなつてゐるが、首相の權力が脆弱な日本では、二大政黨制をそのまゝ移植すればただ政情不安が出來するだけでしかない。閑話休題
日本のこれら二つの政党は、共に理念や理論を持たない。現實主義と言へば聞こえは良いが、實態は權力爭ひをやつて、勢力が二つに分れてゐるだけの事だ。ガソリン税を何うするかその他で言爭つてゐるのは、ただ政權政黨に野党が反對してゐるだけの事でしかない。この程度の事は普通に指摘されてゐる。指摘されても何うにもならないのは、日本人が誰も本氣で問題だと思つてゐない事を意味する。少くとも、政治家にならうと言ふ人間の大多數が思つてゐない事は明かだ。彼等は權力爭ひをして、結果として二つの勢力に分れてゐるに過ぎない。

これを「當り前の事だ」と看做すのが日本人だ。そして、當り前の事を疑はないのも日本人だ。少しでも「常識的」な事を疑へば、袋叩きにして默らせる良い口實になるし、日本人は力づくで他人を默らせるのが好きな國民である。もつとも「常識を疑つて見せる」事で自分の頭を良く見せようとするのも日本人で、喜が頭に附くブロガーがその典型。何れにしても、哲學を持たず、精々もつともらしい理論や「えらいひと」を持出して、ひたすら現實の問題を處理しようと汲々としてゐるのが日本人である。恰好良く物事を割切つて見せるパフォーマンスをするのも、長々と現實の問題を論じ、現實的に處理して見せようとするのも、或は与党の方針を野党が否定して見せるのも、全て日本人的な餘りに日本人的な行爲である。
日本人の多くは、行動や主張を盛にするものの、何らかの行動・何らかの主張の背景に、自己の信ずる價値觀を持たない。日本人の行動や主張には、背後に哲學がない。これについて、喜の字が頭に附くブロガー子等は「それこそがよいことなのだ」と威張つて言ふ事だらう。けれども、我々は過去の歴史と先達に學ばなければならない。
日本の先達として西歐の連中を持出すと「何を今更」と言はれるのであるが、しかし英國や佛國或は米國の民主主義をモデルに日本が「我國の政治體制」を構築してゐるのは事實である。既に日本が全く獨自の政治體制を築き上げてゐるのなら、諸外國の事は無視して突つ走ればよろしいが、二大政黨制にしてもアメリカの眞似だ。その諸外國の政治體制下で、政黨は全て何らかの價値觀に基いて結成され、議員諸氏は何らかの理念を支持して政黨に所属してゐる。權力を求めてあつちの政黨からこつちの政黨に鞍替へする人もゐるが、尊敬されない。日本で民主党自民党の間を議員が移つても、我々は何とも思はないだらう、當り前と思ふだらう。あちらとこちらとでは、政党の意味が違ふ。日本で政党は、權力を求める人々が當座、戰ふ爲に一致團結した姿に過ぎない。彼の地では、理念を實現する爲に人々が集つて黨を結成する。權力は飽くまで理念を實現する手段である。勿論、「建前」「本音」であちらの連中の態度を説明する事も出來るが、さう云ふ風にしか我々の見る能力がないのだとしたら、敢て我々の常識的でない見方で彼等の態度を説明してみるのも視野を擴げる役に立つだらう。

ところで、我が日本には、戰後のみならず戰前にも政黨政治の時代が存在してゐる。歴史的な事實である。我々は今、冷靜に過去の政黨政治を思ひ返して反省する事が出來る。既に自由民權運動の時代、或はその前後の政治は、多くの歴史書で批判的に採上げられ、問題點を指摘されてゐる。明治時代、或は大正時代、政党が存在して議會政治が行はれてゐる。さて當時の政党は、なぜ存在したか。全て權力爭ひの爲であつた。理念は存在しない。議員は互ひに好き嫌ひで黨を結び、離合集散を繰返した。政黨政治が瓦解し、軍による政治が出來したのは當然の事だつた。政黨による政治をする意義が存在しなかつたからである。
今の政治が過去の政治と同樣、單なる權力爭ひである事を、我々は疑ひ得ない。ところで、さうした状況を、我々は全く問題視しないのである。問題視して何うする、今、現に、政治は行はれてゐるではないか――成程。日本人は價値觀を認識し得ず、變化のみを認識する。
然るに、過去の失敗した政黨政治の後を襲つて出現した軍國主義を、我々は非難する。これは何なのだらうか。しかも、軍國主義が出現した理由である「意義のない政黨政治」を、今、我々はそつくりそのまゝ再現して、その状態を「常識的」「當り前の事」と看做してゐる。

我々日本人は、現實に失敗してからでないと、問題を認識しない。もちろん、諸外國の連中もさうだと反論されるだらう。しかし、諸外國で失敗があつても知つた事ではない、問題は我國に關する事だ。一度した失敗を、我々は再び繰返しつゝある。
否、違ふ、我々は最う失敗しない、同じ事をしてゐても違ふのだ、安心しろ、大丈夫、今は過去でない――それがこのブログの讀者諸氏の一般的で常識的な判斷だ。「現に運用されつゝある」、この理由ほど日本で説得力を持つものもない。
だが、過去は過去、現在は現在、と云ふのは如何なものか。我々は、過去と現在とを區別し得るのか。時間の經過に對して、我々日本人は何の懸念も持たない。時が過ぎると物事は自然に(勝手に)良くなる、さう多くの日本人は考へてゐる。人間が何かする必要は全くない。餘計な口出しをするな。
ところが、その一方で、日本人は、實に熱心に、システム構築、物事を運用する仕組の構築に努めるのである。何かしないと世の中動いていかないかのやうだ。けれども、無爲自然の萬能を主張しながら自然の後押しをしようとするのは支離滅裂だ。だが、しかし、日本人は屡々論理的に支離滅裂である事を認識出來ない。日本人は論理的に破綻すると全く關係のない事を言出して話を逸らし、自己正當化をはかる。此處では「何かをする」努力の尊さを、日本人は言ひ訣に使ひ、これが本來の理論と何の關係もないがゆゑに、實に多くの日本人は納得する。日本人は、話を逸らされると説得される、と云ふ妙な傾向を持つ。詐欺師が横行する所以である。

執拗に「日本人」「日本人」と言つて來たが、日本人が日本の中で自分逹だけでやつて行けるのなら何の問題もない。けれども今はさう云ふ時代でないのでないか。

價値觀の問題を論じようとして結局價値觀を持たない事の現實的な問題についてしか論じられなかつた。あまり巧く書けてゐない。