闇黒日記?

にゃもち大いに語る

文明論みたいなもの

日本人は屡々價値觀なる概念を認識出來ない。
金田一京助と春彦の親子は「日本語が駄目になつた」とは思はない。「日本語が變つた」と認識するだけだ。彼等は、變化と云ふ概念は理解するが、正邪の概念は理解しない。そもそもこの世に「正しい」なんて事は存在しないと心から信じてゐる。

日本人は屡々、價値觀を論ずる以前に、價値觀を論ずる資格を問題にする。
「義」が典型だが、何かの價値觀について語るには、そもそもその論者が自分でメシを食へるやうになつてゐなければならない、と、案外多くの人が主張する。自分でメシを食へるやうになる事は、道徳を論ずる爲の資格であり前提條件だが、日本人にとつて前提條件・資格が道徳そのものにすりかはる。「義」やら「きた」やらが掲示板で他人を「無職」と罵り「無職は外道」と叫んで氣に入らない人間を默らせようとするのは、彼等が日本人だからで、さう言へば問答無用で相手を惡人に仕立て上げられると信じてゐるからからだ。

しかし、「自分でメシを食へるやうになつた人」がする仕事以外の行爲を、遊びである、餘技である、と認識する事も、日本人の常である。と云ふより、餘技であり遊びであるから、仕事以外の行爲は日本人にとつて極めて輕い存在である。俳句を作るにしても遊びである。
そんな訣で、藝術と云ふものを日本人は全く評價しない。恐らく多くの日本人が、俳句だの何だのより、麻雀の方が、まだしも有益なものだと思つてゐる。特に同僚との賭け麻雀。

それが日本人である。
英國人やらはさう云ふ日本人と違つて云々。

物書きでない俺に御立派な論文を書く積りはないから適當。