闇黒日記?

にゃもち大いに語る

右であれ左であれ刹那主義

茲を見てゐる人は案外理系の人が多かつたりするやうなのだけれども數少ない(?)文系の人向けの御話。
この世には科學を啓蒙する爲の雜誌があつて、それは恐らく專門の人には今さら役に立たないのだらうけれども、門外漢の人間を惹きつける爲、眺めて樂しいものに仕上がつてゐる。知らない人はあんまりゐないと思ふけれども、結構見ない振りをしてゐる人も多い氣がするから、普段この手の雜誌を手に取らない人は、立讀みをするとよろしいかと――と言ふのが惡ければ、圖書館で眺めて見ると良いと思ふ。
数独とかクロスワードパズルとかで頭の體操をしてゐる人もゐるだらうけれども、この手の本に書かれてゐる事なんかも結構頭を使ふきつかけにはなるのでは。


日経サイエンス六月號では「宇宙の歴史が消える日」と題して、「遠い未來」においては觀測によつてビッグバン理論その他の證據を見出す事が不可能になるであらう事が述べられてゐる。(サイトを見たら内容を讀めるから、雜誌を買はないでも良いみたい)
http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0806/200806_022.html
「遠い未來」と言つてもたかだか1000億年で、不可思議とか無量大數とか、そんな巨大な數字の單位を知つてゐる我々にとつてみれば、ついほんのちよつと先の話だ。その頃には最早我々は一人の例外も無しに死んでゐるし、多分今の文明の痕跡も殘つてゐないと思ふ。fankee_jrの「惡行」も、そんな先には何一つ傳はつてはゐないだらうと云ふ事だ。讀者諸子よ、想像して見玉へ。更にその先、どんどん宇宙は膨脹する、その中で物質は稀薄になり、仕舞ひにはブラックホールでさへ蒸發して消え失せるとか云ふ話だ。宇宙は熱的死を迎へるとか言はれてゐる。いろいろな理論を適當に見ても、あんまり將來に期待出來さうにはない。

ところで、我々文系の人間は屡々、イデオロギー鬪爭なんて事をやらかす。理系の人もたまにやる。さう云ふ事に一生懸命な方々は、この手の科學の本を讀まない。が、しかし、さう云ふ方々に御聞きしたいのだが、文化なり傳統なりを守るのであれ、人類の進歩と云ふものを信ずるのであれ、その先は何うなるのか。
我々は日々生活してをり、いろいろな營みを續けてゐる。が、世界は確實に死に至り、繼續してゐるものは全て終焉の時を迎へる。そんな未來の姿は、今や科學がはつきり示してゐる。
そこで、我々が現在の生活を續け、何とかやつて行くのは、なぜなのか、と云ふ疑問がある。これに、右の人も、左の人も、何と言つて答へるのか。

宗教は答へられるか。我々は既に宗教それ自體を信用してゐない。
創造主なくして如何にこの宇宙を創造し得るか、を、科學は追究しつゝある。意志なくして偶然によつて宇宙をあらしめる事は、理論上「可能」とされてゐるらしい。この世の存在には神の手が必要であつた筈だと如何にクリスチャンが強く主張しても、そんなものは要らないと科學者は自信を持つて囘答する事が出來る。そして日本人は大體殆どがクリスチャンではない。
神道に至つては、そもそも宇宙の創造に何ら關心を持たない。

かうした疑問を呈する事を、人權侵害に關する議論の妨害であるとか、或は、無職の言ひ訣とか、非難する人がゐる。が、それの何が惡いのだらう。開き直つて言ふが、人權侵害を解決し、或は俺が就職したところで(此處は笑ふところ)、それで世界が永遠に繁榮を續ける事にはならない。
寧ろ、人が現世で幸せになつても結局死ぬ事、仕事をしても世界は何時か無くなつてしまふ事――さう云ふ事實がある事に對して、我々は、にもかかはらず、なぜ働き、なぜ世の中を改めようとし續けるのか、その理由、或は動機を明かにする必要がある。
痩せ我慢の説は福澤諭吉の説だが、我々はそれでやつて行けるのか。實際、我々は何も考へない事で何とかやつて行つてゐるだけではないか。當座、樂しい事をして、嫌な事は考へないで、それで健全な社會生活を送つてゐる。が、既に我々の科學やら何やらは不健全の領域――道徳それ自體をナンセンスなものにしてしまふ段階に入りつゝある。
何も考へないで當座生きる爲に生きる――としたら、これは人間の生と言つて良いのか。動物の生と何う區別するのか。

右であれ左であれ、今や我々は一人の例外も無しに刹那主義に陷つてゐる。それを何とかしようとすら考へない事は、幸福であるが、しかし、それは、新興宗教の信者が何も考へないで幸福でゐるのと何か違ひが「ある」のだらうか。新興宗教の信者を嘲つて嗤ふ醒めた人ですら、現代と云ふ時代における自らの立場を忘れて幸福でゐるだけであつて、結局は信者諸氏と何も變るところはない。