闇黒日記?

にゃもち大いに語る

匿名批評にも仁義がある

もちろん匿名だらうが何だらうが正しい批判なら「あり」なのだ。けれども、批判の仕方として卑怯と云ふ事があつて、身許を明かにしてはできないやうな卑劣な眞似をするのに匿名なりハンドルなりの假面を被つて、しかも威張つてやる、と云ふ事が屡々ある。さう云ふ匿名の攻撃は、逆に非難されて然るべきだ。

あの谷沢永一が言つてゐる。
http://members.jcom.home.ne.jp/pctips/www/BBS/Tokumei.html
覆面して暗闇から人を撃つ場合には、文壇や學會の符牒を用ゐず、人事問題や、勢力關係を我が黨派に利せんとする世俗的效果を狙はず、係累なき健康な讀書人の視座で理解できる論法を驅使し、一篇の短文で問題にケリをつけるきめ手にしぼつた凝縮表現が肝要。堀米庸三が假に不勉強だとして、堀米が當該論文で述べようとした論旨そのものがそのためいかにヲカシクなつてゐるかを内面的に剔抉して見せぬ限り、匿名批評は讀書人の良識に相渉るをえぬ、學會ボスへの嫉視の發作にとどまるだらう。匿名氏は私心を捨てよ。
※「紙つぶて」昭和50年11月25日

俺の例の大間違ひでも、その場での指摘は、俺の主張に對する批判として有效だ。俺は「涙目」でも、引下がつた。實際には、その大間違ひが俺の主張の論旨そのものををかしくしてゐる事は全くなかったのであり、引下るべき必然的理由は全く無かつたのだけれども。

だが、それをその場にゐなかつた赤の他人が、あとになつて大騷ぎして宣伝し捲つてゐる。喜六郎の「アーカイブ」だが、これは最早批判ではない。ただの「嫉視の發作」だ。なんで過去の人の行状を穿くり出し、「こいつはこんなに愚かなのだ」と宣傳して、それで自分には何の功績もないのに、あたかも自分が偉い人物であるかのやうに威張り返つて良いのか。喜六郎には何一つ功績がない。しかし喜六郎は、自分が偉大な人間であるかのやうに振舞つてゐる。「慈悲」なんてものを見せびらかし、自分が「謙遜」である事を誇つて尊大に振舞つてゐる。

「喜六郎」と名乘る人物、この人物は、何處の馬の骨ともわからぬ匿名の人間であるが、しかし「喜六郎」なるハンドルをウェブの社會に賣込んで、有名にならうと企んでゐる。その爲に、俺や木村さんは踏み臺にされたのだが、別人を利用するのは構はないが、それにしても、こんな汚いやり口はないだらう。
なんで喜六郎は、自分自身の力で有名にならうとしないのか――本人が愚かだからだが、喜六郎は俺・野嵜の事を愚かだ愚かだと宣傳する事で、自分が頭がいい・利巧な人物であるかのやうな印象を、周圍に與へようとしてゐる。斯う云ふずるいやり方を得意とする人間は、世間にもゐて、慥かにそれなりの地位に就いてゐる事が多いが、大概周りから輕蔑されてゐる。

ちなみに××××の「無職は外道」小僧が喜六郎を崇め奉つて見せてゐるのは、單なる俺への當てつけで、喜六郎もまた利用されてゐるに過ぎない。
が、この「外道」小僧が俺の名を騙つて僞者ブログを作つてゐるのである。それに對抗する爲にこの「闇黒日記2.0」を俺は作つたのだが、その運營を妨碍する爲に今、喜六郎は俺に對する個人攻撃を續けてゐる。
「外道」小僧が喜六郎を利用してゐる一方で、喜六郎もまた「外道」小僧に協力してゐるのであるが、さう云ふ事實を指摘されても喜六郎は「興味がない」と話を受流して知らぬ振りをする。
自分にとつて都合の惡い事實を、喜六郎は決して受容れない。粘着アンチはひたすら他人の所爲にして、自分は何も惡くないやうな顔をする。

斯う云ふ自己中心的な「匿名」の活動が一般化すると、匿名批評それ自體が胡散臭いものと看做されるやうになり、排除されるやうになる。既にウェブでは匿名の活動をアングラ扱ひして排除しようとする傾向が生じてゐる。
今、匿名を擁護してゐるのは、まづ、匿名で「甘い汁を吸つてゐる」嫌らしい喜六郎のやうな連中か、極樂蜻蛉の樂天主義者か、
現實のウェブで生じてゐる事態を見ないで觀念的に理想を語る人か、
http://www.7key.jp/diary/list/2006_04a_10_01
若くて威勢の良い人か、※
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080520/p3
――いづれにせよ、匿名批評は簡單に成立する、と考へてゐる人々だ。もちろん、一方は、人間性惡説を全肯定して率先して惡事を働く連中であり、他方は、人間性善説に基いて良い匿名批評が行はれるものと信じてゐる人々であつて、立場は全く異るし、現實に「なされる筈」「なされるべきだ」と想定する匿名活動の内容も異る。


實は、俺は優れた匿名批評を支持する者であつて、だからこそ今の喜六郎や「外道」小僧の行なつてゐる惡質な匿名の活動は有害だと考へる。かうした惡辣なやり方が匿名で行はれる現實があるならば、匿名の活動が一般に排除される事は大いにあり得るし、その結果が良いものでない事は想像出來る。
有效な匿名批評が出現し得る環境を殘す事は必要であり、だからこそ有害な匿名の個人攻撃の類はウェブの「大衆」が良識を發揮して、出現は止められない、だからこそ積極的に反對し、自主的に排除するやう努めねばならない。それはウェブを正常に保つ爲に必要な事だ。

喜六郎はウェブを馬鹿にし、ウェブの言論活動等「あり得ない」と主張してゐる。それゆゑ彼は、個人攻撃・嫌がらせ・中傷のやうなまともな社會では許されない言論活動ならざる惡質行爲を好んでウェブで行なつてゐる。ウェブは言論活動の場ではないから、この種の普通誰もが許し難いと思ふ行爲も一般に行はれる筈であり、だから自分はやる、と喜六郎は宣言してゐる。
かうした發想をする人間がウェブにゐられるのは、ウェブの利用者の側でそれを默認する傾向があるからだ。彼はウェブを「すみごこちのよい場所」と看做してウェブに寄生してゐる。かうしたウェブの敵が存在すれば、ウェブはまともな人間にとつて利用し辛い場所となり、價値を失ふ事になる。
ウェブでは極めて廣範圍に「聲が屆く」事もあつて、利用者の多くが或種の問題に關してなかなか物を言はない傾向がある。殊にこの種の寄生蟲的存在の問題については、復讐を恐れて一般のユーザは口を噤む傾向にある。だから現状、ウェブでは自淨作用が働かない事になつてゐるのだが、それが彼ら寄生蟲的存在の「生存」を許してゐる原因となつてゐる。
ウェブを害する彼ら寄生蟲的存在に對して、ウェブを守りたいと思ふ人は、聲を上げて行かなければならない。良かれ惡しかれウェブのシステム自體がさうしたユーザの良心に依存してゐるのだから仕方がない。それが無理なら本當に近い將來ウェブは崩潰する。