闇黒日記?

にゃもち大いに語る

憲法めも:議会政治の形骸化・軍国主義

……明治憲法の運用
明治憲法は、神権天皇制という特色をもってはいたが、他方では、立憲主義の原理に立つ近代憲法でもあった。……。
……。
施行の直後は、神権天皇制を拠り所として、藩閥政治家が超然主義を唱え、衆議院における政党を無視あるいは敵視して、独断的に政治を行おうとしたから、内閣と政党は常に対立抗争を繰り返すこととなった。しかし、これでは円滑に国政を運営することはできないから、やがて両者の間に協調の機運が生まれ、超然主義は次第に影をひそめていった。そして、政党政治、すなわち衆議院における多数党が内閣を組織して政権を担当する仕組み――今日の議院内閣制であるが、当時は、これを立憲政治、略して憲政といい、政党間における政権交代憲政の常道といった――の実現に向けて徐々に進んでいった。
けれども、時には神権天皇制が息を吹き返して、政党を無視する超然内閣が出現する。大正二年(一九一三年)の第三次桂内閣、大正一三年(一九二四年)の清浦内閣が超然主義を唱えたが、これに対しては、国民も政党も猛然と反発し、各政党が党派を超えて一致して憲政擁護運動を起こし、これが広く国民の支持を得たから、これらの超然内閣は倒れて神権天皇制による大権政治派はその力を失い、立憲主義体制が定着した。前期の憲政の常道が実際に行われ、民主的な議会政治が実現したのである。
ところが、昭和七年(一九三二年)の五・一五事件を契機として議会政治は次第に形骸化し、以後政党は政治の中枢から後退し、軍人官僚等がこれに代わっていった。ことに軍部(特に陸軍)は、統帥権独立を濫用して、軍に対する文民統制を排除し、また陸海軍大臣の武官制に依拠して内閣の命運を左右するなど、積極的に立憲主義体制を空洞化させていった。神権天皇制こそ正統とする国内のファッシズムは、こうした動向を強力に推進し、いわゆる軍国主義が大勢を制するようになったのである。一方、各政党は、第二次世界大戦勃発の前後には戦争遂行の名の下に解散を余儀なくされ、民主的な力を結集して、こうした暴走をチェックする体制は、消滅していた。それゆえ、第二次大戦末期の状況は、不完全ながらも明治憲法の定める立憲主義体制の崩壊(芦部信喜憲法学1憲法総論』一四二頁)というべきであり、重大な憲法違反が横行するという事態となっていた。
出典:松澤浩一編著『憲法論』(八千代出版)二十五~二十七ページ。

めも。