闇黒日記?

にゃもち大いに語る

憲法めも:明治憲法の成立

近代憲法の制定施行ということは、一八世紀におけるアメリカおよびフランスの革命以来、世界史上の主流であって、今日でも重要な意味を持っており、民主国家であるかどうかは、近代憲法が正しく行われているかどうかで判断される。わが国も、すでに百年を超える近代憲法の歴史を有しており、その実体にはいろいろ問題があるとしても、ともかくも民主国家である。
日本憲法史は、明治憲法、正しくは大日本帝国憲法の制定に始まる。明治維新の後、欧米の思想、制度などに接して急速に普及した自由民権の運動が次第にたかまり、これを沈静化するため、ヨーロッパ諸国におけると同様に、近代憲法制定の必要に迫られた。明治憲法制定の主要な原因はここにある。このほか、幕末における不平等条約の改訂のためにも、近代憲法を頂点とする国内法制の整備が緊急の課題として、存在していた。
かくして、明治一三年(一八八〇年)当時の元老院が国憲案(憲法草案)を作成したが、これは国体に合致しないとの理由で、明治政府の中枢部にいた岩倉具視伊藤博文に反対され、採用されなかった。
一方、民間では自由民権運動の広がりとともに、さまざまな憲法試案が発表され、いかなる憲法を制定すべきか、活発に議論されていた。この事実は、高く評価すべきであって、一八七〇年代にわが国でも、人権尊重と民主政治の実現を目指して、多くの国民が真剣に取り組んだことを物語っている。
このような状況を背景として、政府部内でも、大隈重信を中心とする急進派により、イギリス型の政党政治――議院内閣制を基礎とする憲法の速やかな制定が主張された。これに対しては、当時の内外の情勢からみて、こういう急進論は危険だとする岩倉や伊藤一派が反対し、大隈ら急進派を政府から追放する(明治一四年の政変)という強硬手段に出た。けれども、そのまま放置できる状況ではなかったので、明治一四年一〇月政府は、国会開設の直喩で、明治二三年(一八九〇年)に議会を開設すること、それまでに憲法を制定すること、を明示した。
明治一五年(一八八二年)、憲法調査のため伊藤博文がヨーロッパに派遣され、伊藤は主としてドイツを中心に調査を行い、翌一六年帰国して、ドイツ型の立憲君主制憲法の制定を目指して、その草案起草の作業を進めた。この間に、憲法の制定施行にそなえて必要であるとして、明治一七年に華族制度、明治一八年に内閣制度、明治二一年には枢密院および地方自治の制度がそれぞれ定められている。
憲法草案の起草作業は、明治二一年、(一八八八年)完了し、次いで、これは新設された枢密院の審議に付され、翌二二年(一八八九年)一月にその審議が終了し、同年二月一一日「大日本帝国憲法」として発布され、第一回帝国議会が開会された明治二三年(一八九〇年)一一月二九日から施行(上諭第四項)された。
出典:松澤浩一編著『憲法論』(八千代出版)二十三~二十四ページ。

めも。