闇黒日記?

にゃもち大いに語る

バアタリアンは所詮バアタリアン

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/70.html
2008/5/29
「バアタリアンはお前だ」  松原信者
「無免許法学者」野嵜健秀氏が、相も変わらず陳腐な憲法論を性懲りもなく開陳している。
が、それに対してツッコミは入れない。
というか、入れる気にもならない。

野嵜氏は私の事を「バアタリアン」と呼んでいる。
要するに、「喜六郎は場当たり的に主張をコロコロ変える奴」と言いたいんだろうが、「バアタリアン」という称号は寧ろ野嵜氏にこそ相応しい。
それを今回は論証しようと思う。

まずは引用。

俺は、人間は信頼出來ないものだと思つてゐるから、約束で人間を縛る事は必要だと信じてゐる。
(闇黒日記2.0 「憲法に對する二つの立場」から引用)


なんて書いてる一方で、これの以前に書いた「經濟隨筆」なる記事にはこんな記述がある。

寧ろ、人間の善性に期待する木村氏の態度の方を、俺は好む。政府の統制で全てが解決すると、樂天的に考へてゐる喜六郎の方こそ、酷薄であり、最後の「一匹」の存在を無視した、言つてみれば「人間不在」の發想をしてゐると思ふ。
(闇黒日記2.0 「俺の經濟隨筆」から引用)

「人間の善性に期待する」木村氏の態度を「好ましい」と評したということは、野嵜氏も人間の善性を信用していると見なして良いのだろう。
しかし、その一方で「人間は信頼出來ない」だなどと矛盾することを平気で書くのである。
つーか、「人間の善性」を信頼してるのよ?してないのよ?
どっちよ?
場当たり的に主張をコロコロ変えるのは止めて頂きたい。

ちなみに、私は「人間にはエゴイズムがある限り、規制は必要である」とは言ったが、「政府の統制で全てが解決する」なんて言ったことないんだけど。
勝手に人の意見をねじ曲げないでください。

氏は、「つーか、「人間の善性」を信頼してるのよ?してないのよ?」なんて言つてゐる。

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閲覽者の方々に論爭のテクニックを御教へしませう。矛盾を論證したければ、「Aである」「Aでない」か、「Aであるべきである」「Aであるべきでない」、または「Aが好きだ」「Aが嫌ひだ」のやうな、論理的に明かに矛盾した發言を比較すべきです。
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批判する側の解釋が介在するやうな「比較」は、しても意味がない。
喜六郎氏は今、俺の發言の「本當の意味」を推測してゐる。その推測をもとに、喜六郎氏は「矛盾がある」と言つてゐるのだ。が、推測した内容を比較して「矛盾だ」と言つても仕方がないのでないか。

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さて、ここで喜六郎氏のバアタリアンぶりを「論証」しておきたい。

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/13.html
「筈だ」?
曖昧な言い回しが嫌いな木村氏にしては、ずいぶんと曖昧な言い回しですな。

以前、喜六郎氏は、木村氏の「曖昧な言い回し」を非難してゐる。ところが今囘。

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/70.html
「人間の善性に期待する」木村氏の態度を「好ましい」と評したということは、野嵜氏も人間の善性を信用していると見なして良いのだろう。
喜六郎氏は「のだろう」と曖昧な事を言つてゐる。

喜六郎氏は、「曖昧な言い回し」を容認してるの?してないの?
他人には許さないが自分には許す、とか、「甘つたれた」事を言ひはしないだらうね?
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アタリアンのバアタリアンらしい場當り的ぶりは兔も角、この推測は全然根據がないし、しかも「論証」の過程であるから曖昧さは絶對に許されない。それが喜六郎氏には全然解つてゐない。

推測を根據にしたら、結論も推測でしかあり得ないんだよ。


それなのに喜六郎氏は「場当たり的に主張をコロコロ変えるのは止めて頂きたい。」と威張つて言ふ。


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グレアム・グリーンは『キホーテ神父』で、主人公の神父さんに「マルクスは善い人だ」と言はせてゐる。喜六郎氏はこれを理解出來ないだらう。
唯物論を認めないクリスチャンが、唯物論マルクスを「善い人」と評價する――この事には何の矛盾もない。
だが、喜六郎の精神には、斯うした事を矛盾と判斷してしまふ單純さがある。
そして、自身に斯うした缺點がある事を、喜六郎は自覺してゐない。

しかも、斯うした俺の「辯明」を見ると、喜六郎は性急に俺の價値觀を判定してしまふのだ。


斯う云ふ人物が俺を非難し、俺に粘着してゐるのである。

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聞く耳を持たない事で勝つた氣になつてゐる」喜六郎氏は、俺の反論に耳を貸す訣もなく、それ以前に喜六郎氏は自分の誤を認識する事も出來ないから、今囘も「勝利宣言」を出す事だらう。苦笑。
「松原信者」には大變嚴しいアンチの方々も、身内の喜六郎氏にはとことん甘い。今囘も喜六郎氏を禮讚するコメントを書込んで氏を喜ばせてゐる。
――かう云ふ馴れ合ひこそ知的怠惰にほかならないのだが、さう云ふ知的に怠惰な喜六郎氏には、俺のやうな存在が憎くて憎くて堪らない存在に見えるらしい。アンチ仲間の諸氏もまた。