闇黒日記?

にゃもち大いに語る

アンチ野嵜の常套句――「勝手に人の意見をねぢ曲げるな」

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/70.html
ちなみに、私は「人間にはエゴイズムがある限り、規制は必要である」とは言った
が、「政府の統制で全てが解決する」なんて言ったことないんだけど。


勝手に人の意見をねじ曲げないでください。

さう云ふ意見でないのならば、喜六郎氏が木村氏を全否定する理由はなくなる。

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/64.html
木村氏が信奉するリバタリアニズム最小国家主義)というのは、政府の機能を国防や司法など最小限に縮小し(小さな政府)、その他の分野においてはいわゆる「神の見えざる手」という市場の調節機能にちって秩序を保つという経済思想である。
言うまでもなく、私はリバタリアニズムは断固として否定する。
喜六郎は、その「断固として否定する」理由を述べて、「私は木村氏ほど、市場を形成する人間の良心というものを信頼していないからである(信頼したいという気持ちはあるが)。」と言つてゐる。
「信頼していない」が「信頼したいという気持ちはある」と云ふのが「矛盾でない」と云ふのは、喜六郎氏の立場から言つてをかしい。後述→※

人間には、個人であれ集団であれ、必ずエゴイズムというものを持っている。経営者と従業員の関係を例にすると、経営者の最大のエゴは、従業員を奴隷同然に扱うことに尽きるし、従業員の最大のエゴは、働かずに沢山の賃金を頂くことに尽きる。
両者のエゴイズムを全面的に認めてしまえば、当然企業というものは成り立たなくなる。
そこで必要なのが、政府による規制である。
政府の規制により、両者のエゴのある部分は認め、ある部分は抑制することによって企業が成り立つのである。
企業に限らず、社会とは政府の規制によって秩序を保っているのである。
もし政府の規制を撤廃すれば、弱者のエゴは強者のそれによって圧殺されるであろうことは想像に難くない。

しかし、それで「全てが解決する」訣ではないとしたら、喜六郎氏の主張は不完全なものだ。「政府による規制」は、必ずしも喜六郎氏の指摘するエゴイズムの問題を解決しない。ならば、喜六郎氏の發想も、決して完全なものではない。喜六郎氏の主張に全面的に依據する事は出來ない。

議論においては、不完全な主張で以て他者の主張を全否定する事は、許されない。完全な主張を自分がしてゐるからこそ、他者の完全な誤を全否定する事が許される。

政府を部分肯定する喜六郎氏は、政府を部分否定する木村氏を、全否定してゐる。これは無理がある議論だ。


喜六郎氏は、自分が何をやつて來たのか、認識してゐないのだらうか。俺は、喜六郎氏が他人を全否定する爲に必要な論理を指摘しただけである。「政府の統制で全てが解決する」と言はなければ、喜六郎氏の主張は完全なものにはならないし、完全な主張をしてゐなければ木村氏の主張を全否定する事は許されない。
「政府の統制で全てが解決する」――これは喜六郎氏が自身の主張を成立たせる爲に根本的に必要とする筈の主張である。それを氏自身が否定するならば、氏は自分で自分の誤を認めた事になる。


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※喜六郎氏の場當り的な論理。

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私は木村氏ほど、市場を形成する人間の良心というものを信頼していないからである(信頼したいという気持ちはあるが)。

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「人間の善性に期待する」木村氏の態度を「好ましい」と評したということは、野嵜氏も人間の善性を信用していると見なして良いのだろう。


しかし、その一方で「人間は信頼出來ない」だなどと矛盾することを平気で書くのである。