闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「日本国憲法」を「守る義務」について

日本国憲法」には以下の規定がある。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
憲法を守る事」は、「統治者」に課せられた、明確な義務規定である。
これに對して、「被統治者」である國民に對しては、明確な義務規定がない。

一方で、個別の條文において、實質的に國民に課されてゐる義務がある。その中で、教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)を「三大義務」と稱してゐる。この他に、基本的人権を守るべき事が「義務」として國民に課されてゐる。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

Wikipediaの「義務」の項には、「これも、人権の歴史的意義と保持のための国民の責務を述べたものであって、精神的指針としての意味はあるものの、具体的な法的義務を国民に課したものではないと解されている。」と書かれてゐる。一般的な教科書の記述に據つたものらしいが、斯うした事が憲法學で普通に言はれてゐるとしたら問題だ。

宮澤俊義憲法講話』(岩波新書青版627)の十九ページに、以下のやうに書かれてゐる。
人権は、それを得るために、そしてこれを守るために「不断の努力」を惜しまない国民にのみ、現実に保障される。憲法の規定がどのようにりっぱにできていても、表現の自由の価値を知らず、そのための「不断の努力」を怠る国民にとっては、憲法の条文は「白い紙の上に書かれた黒い文字」にとどまるだろう。
この記述は、宮澤が明確に「精神的指針」以上の意義をこの條文に認めてゐる事を示す。と言ふより、この記述は、以下のやうな流れの中で出現する。
「今の日本くらい言論の自由がひろくみとめられている国は、世界中にない」という意見がよく聞かれる。
……。
……。はたして今の日本で、そんなにひろい範囲で表現の自由がみとめられているか。ここではこの問題を考えてみたい。
憲法の規定が表現の自由を徹底的に保障していることは、すでに説明した。表現の自由は実際上も、憲法の規定どおり、ちゃんと保障されているか。これが問題である
戦前にくらべて、戰後の日本で、比較にならないほど、言論が自由になったことは、事実である。たしかに、今は、権威を批判し、権威に反対する自由がある。政府を憎む思想は、もちろん、政府が憎む思想も、新聞や、雑誌に、いやというほどのっている。戦前には、とうてい日の目を見ることができなかったであろうような色っぽい小説を、作者たちは、競って書きまくっている。言論の制限などというようなものは、どこを探しても見あたらない!
だが、本当にそうだろうか。わたしたちは、よく考えてみる必要がある。ある雑誌が、皇室のメンバーをからかった小説をのせた。明治憲法時代ならもちろん処罰ものであるが、今の憲法の下では、作者も、編集者も、なんらの法律上の制裁をうけなかった。ところで、事件は、それで終っただろうか。編集者が、ある方面からの圧力の下に、みずからの言論の自由の範囲を、自発的に(!)、制限したようなことはなかったか。また、そういう圧力行動を批判した人たちが、そのために、直接に間接に、大なり小なり、いやがらせになやまされたことはなかったから。そして、それらの一連の事情の結果として、事実の上で、ある種の言論上のタブーが発生……というよりはむしろ、復活し、表現の自由を保障する憲法の規定をあざ笑っているようなことはないか。

俺は、大日本帝國憲法の有效を信ずるし、現行の「日本国憲法」の無效を唱へるものである。が、さう云ふ俺の主張に反對し、或は嘲笑する人々には、「日本国憲法」の規定を、無視し、或は「實質的效力を持たない精神的規定」と稱して輕視する傾向がある。
彼らは、「表現の自由」を、認めてゐるかのやうな顔をしつゝ、しかし、實質的に特定個人の表現を封殺する動きを支持し、少くとも容認する態度を示す。そして、積極的に特定個人の言論を妨碍してゐる人間に對して、「我關せず」の態度をとつてゐる。
具體的に言ふと、喜六郎は、現行憲法無效論を認めない立場であり、明かに「日本国憲法」支持者だが、その「日本国憲法」における「基本的人權保持の義務」を無視し、或は「精神的指針」だからと言つて殊さら「守らなくて良い」ものと主張し、野嵜の發言を妨碍する爲に野嵜の名を騙つて各地の掲示板を荒し廻る「義」の行動を默認し、容認して、非難する事すらしない。そもそも、「日本国憲法」を支持するのなら、憲法が各種の自由を規定してゐる事を支持してゐる筈だが、なぜか喜六郎は自由主義を否定する立場である。
喜六郎は、異常極まる態度をとつてゐるが、だからこそ異常人格者の「義」の、反自由主義的言動を否定せず、容認し――と言ふより、喜六郎は、野嵜に對する「義」の嫌がらせを、「いい氣味だ」と感情的に思つてをり、だからこそ、自己の思想との齟齬を一切自覺しないのだ。
喜六郎は、「義」が野嵜に對する嫌がらせを行なつて快を貪つてゐるのを、「傍觀」しながら、自分も「義」が味はふのと同じ快を味はつて、喜んでゐるのである。

俺に對するアンチには、この種の異常な快樂主義者が少くない。
例の惡性氏ことアレクセイは、ナルシストであり、自分の「勝利」を演出する事で快を味はつてゐた。
明治天皇は暗殺されてゐた」と異常な主張して好い氣になつてゐた竹下義朗は、自分に對する批判者に「掲示板荒し」のレッテルを貼つて反論の封殺を行ひ、アレクセイの文書に(政治的信條などどこ吹く風で)リンクを張つて、「野嵜叩き」をやつて喜んでゐる。
かかる異常人格者どもにひたすら嫌はれてゐる俺であるが、さう云ふ俺が「反動的」な大日本帝國憲法自由主義的解釋を主張し、俺を嫌つてアンチや粘着と化してゐる連中が「日本国憲法」を支持しながらひたすら俺の自由を奪はうとしてゐる今の状況は、「捩ぢれ現象」と呼ぶにしても、少々ひどすぎる。