闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「喜」の字は論理學を少しは勉強したら?


餘程餘裕がなくなつて來てゐるのか、最近熱心に「ここ」にトラックバックを送つて來るやうになつた「喜」の字。今度も「プライド坊や」とか惡口を言つてゐるけれども、かう云ふ惡口は自分が最も重視する價値觀に基いて言出される事なんだよな。すなはち、「喜」の字はプライドなるものに拘る人間であるが故に、他人がしてゐる事を「プライド」の觀點から見てしまふと。

「喜」の字が相當自分に自信を持つてゐる事は、前田の「ブログ」のコメント欄で知らない人に非難された時、「喜」の字がかつとなつてゐたのを見て俺は良く知つてゐる。「喜」は、プライドが高い、自分に自身のある人間だから、他人を見下すのは得意だし、一度見下すと決めた人間(及び「その取卷き」と看做した人間)に何を言はれても何とも思はないが、第三者から冷靜に批判されるとぐさつとくる。

自分の言行不一致を指摘されると「あれは俺の冗談、それを理解できない喜六郎は馬鹿」と開き直る。

「言行不一致」の指摘はともかく、「喜」の字の言動の裏には「知的スノッブ」を嗤ふ資格があるといふ選民意識と、「知的スノッブ」である「愚かな凡人」への蔑視が潜んでゐる。

「喜」の字のやうに、人の言つてゐる事の價値を斟酌せずに、ひたすら「言行不一致」だの「矛盾」だのを探すやうになると、まあ關係者以外の人なら冷靜に「揚げ足取り」だなと解る。俺の主張の根幹と何ら關りのない、おしやべりなんだよ、音樂の話なんだから。それを恰も「野嵜の根本的な主張」みたいに勘違ひして――それこそ「鬼の首でもとつたやう」に、「喜」の字は嬉しがつてゐる。

最近はまた、自民黨と民主黨の「舌戰」が始まつてゐるのだが、あれなんかちらつと見ただけでも、まあ、肝心な事では全然爭つてゐない、ただひたすら相手の言行不一致だか發言のの矛盾だかを言ひ募つて、相手の印象を惡くしようとしてゐるだけなのが判つてしまふ。
日本人は、何が本當に論ずべき事なのかが解らない。ただ「對立してゐる敵」を追落し、自分が權力を握る爲に、論戰を戰つて、そこでささいなこと、どうでもいいことをまるで重大な問題であるかのやうに見せかける戰術をとる。だからこそ政治が良くならないのだが、それは日本人には解らない。
日本人は、目の前の敵を叩きのめし、屈服させる――と言ふより、相手が自分の前で屈服したやうに周圍にアピールする事を目的に、論戰を行ふ。

「喜」の字は、「知的スノッブ」を嗤ふポーズをとるが、それは「野嵜は知的スノッブ」と言ふスローガンを掲げて鬪つてゐるから。「さうすれば與しやすい」と「喜」の字は思つてゐるのであり、それが知的怠惰と云ふ事なのだが、怠惰な「喜」の字には自覺がないし、何を言はれても認識すら出來ない。
彼(?)が俺の「言行不一致」をとがめるのも、結局のところ戰術の一つでしかない。ただ俺が「喜」の前に敗北したかのやうに周圍の人間に見せかける、それが「喜」の狙ひなのであり、だからこそ、その「言行不一致」の内容を「喜」は考へないし、ただ反論を封じるだけの爲にわざと「プライド」等と言つて話を擴げる。

然るに、この手の戰術を驅使する人間こそ、單なるスノッブだ。彼は眞の知識の探究者ではない。

本当は誰よりも必死なくせに、「冗談」とか「暇つぶし」とか宣って余裕ぶってみせることによって自分がいかに「クール」であるかを強調する。
知的スノッブがよく使う手だ。

「よく使う手」であると「喜」の字は言ふのだが、ここで「よく使う」とはどう云ふ事か。「何時いかなる場合にも例外ナシに」であるか。さうではない。「喜」に限らず、頭の惡い人間は何時も自分の「論理」に自信を持つてゐるものだが、その「論理」が論理として正しかつた試しはない。
「知的スノッブは自分がいかにクールであるかを強調する」「野嵜は自分がクールであると強調する」「野嵜は知的スノッブだ」――一見、見事な三段論法だ。が、三段論法を理解してゐないから、「喜」は平然とこんな事を言へるだけだ。
三段論法の場合、大前提は全稱命題でなければならない。
これは餘りにも基本的な話で、論理と言ふ人間ならば必ず知つてゐなければならない事だ。「知的スノッブ」を侮蔑するからと言つて、知性を持たない訣には行かないし、寧ろ眞に知的でなければならないが、眞に知的であるべき「喜」の字は、論理を弄ぶ以前に、論理學の基礎くらゐは知つてゐなければならない。
ところが「喜」の字は、論理學のいろはも知らない。
http://noz.hp.infoseek.co.jp/Ronrigaku/
だからこそ、全稱命題でも何でもない「知的スノッブがよく使う手だ」なる曖昧な言ひ方で濟ませてしまふ。

嫌になつちやふよ。「喜」本人が論理と云ふものを知らないのは良い、だが、「喜」の取卷き連が全員、「喜」の論理のをかしさを、認識出來ないのだ。例の「哲學」の人も、わからない。わからないからこそ、「喜」を批判しないのだが、さう云ふ連中が「喜」の下に結集して、俺の事を馬鹿にして、己が選民意識を満足させてゐる。全くもつて嫌になつちやふよ。取卷きに持上げられて、馬鹿を何度でも言ふのが「喜」。「喜」はまるで裸の王樣だ。


それにしても。

面白いことは何一つ書けないくせに、自分の肥大した自意識を守る手練手管には無駄に長けてやがる。
2ちゃんねるなんかで「冗談」犯行予告して逮捕される奴が後を絶たない(たまに加藤某のようなマジもいる)けど、野嵜くんも同じ轍を踏まないよう気を付けた方が良い。
この世には「冗談」では済まされない世界があるのだよ。
「喜」が面白い事を何一つ書けない自分の事を自覺すらも出來ないのは、まだいい。だが。
この世には「冗談」では済まされない世界があるのだよ。
これを平氣で書けるのは何うかしてゐると思ふ。これ、「冗談では濟まさないぞ」と言つてゐるのと同義だよ。すなはち、「喜」が俺を脅迫してゐると云ふ事。何しろ「喜」は俺に對するアンチであり粘着である。この「喜」の發言、野嵜に對する何らかの「犯行予告」と解釋する事だつて出來てしまふ。さうなると、俺に忠告する以前に、「喜」こそが豫め誰かから忠告されてゐなければならないやうな人間だつたと、さう云ふ事になつてしまふのだ。もちろん、「喜」に自覺はない。「冗談」犯行豫告をやらかす人間に、自覺がないのと一緒だ。
「喜」は、「冗談」と云ふ語で引つ掛けて話を繋げた積りだが、そんなのは何うでも良いのだ。問題は、冗談でも何でも、言ふのに自覺があるか何うかだ。自分の言つてゐる事の意味を知つてゐるかどうかだ。「喜」は脅迫とも取れるやうな文章を書いて、それを自覺しない。俺よりも「喜」の方が遙かに危險だと言へる。


「喜」の取卷き連の言動も、はたから見てゐると、エスカレートしてゐて、實に危險だ。俺なんかよりも「喜」の方が、遙かに危險だ。大體、2ちゃんねるに常駐してゐるのは「喜」の方だ。「喜」は加藤の仲間なのであつて、俺に忠告できる權利なんてありはしない。ところが「ある」と信じてゐるのが選民意識なのだし、困つた事にさう云ふ變な選民意識を持つた人間が寄り集まつてゐるのが「喜」の「ブログ」なのだ。

俺としては、まあな、プライドくらゐは人並にあるのであつて、「喜」なんかの惡辣な嫌がらせには屈しないでやつて行かうと云ふ程度の氣概はある。「義」や「喜」のやうなろくでもない連中に、ウェブを乘取られるのは堪らないからな。


と言ふか、嫌がらせを當り前だと思つてゐる粘着アンチの「正義」を疑問視しない××××の「一読者」が、俺の正義を疑問視してゐたりするんだよな。何なんだらうと思ふけれども、選民意識の塊で他人を侮蔑する事甚だしい「一読者」のやうな××××が「喜」を守つてゐる。
「喜」はまるでお坊つちやんみたいに過保護にされてる。これでは「喜」も可哀想だ。
「一読者」も「一読者」で、「放置する」と一度言つたのにしつこく俺に絡み續ける「喜」を見捨てないで、叮嚀に「放っておけばいいのでは」等と忠告を試みてゐる。なんで「二枚舌の卑劣漢」呼ばはりしないのだらう。「一読者」自身も「喜」と同じ「二枚舌の卑劣漢」だからだ。類は友を呼ぶ。××××の周りには××××が寄集まる。
俺の周圍には、全うな人許りがゐて呉れてゐる。この點は感謝しなければならないと思ふ。大體俺の事を嫌ふのは××××なんだよな。言葉が通じないんだ。言葉、言葉、言葉。