闇黒日記?

にゃもち大いに語る

ネットストーカー喜六郎と前田氏(前の記事の續き)

つづき。

と言ふか、野崎氏は「くさされた」のが「不愉快」でまた惡口を言つてゐるんだらうが、「大人げない」と思ふ。

前田嘉則

投稿 前田嘉則 | 2008.11.07 10:55 午後

で、話は終りですか。御咎めなしですか。
さうだらう。

俺は何も惡い事をしてゐないのだから、前田氏に「許可」が何う斯う言はれる筋合はない。
言ふに事缺いて前田氏は「許可」が何う斯う言出した。しかしそれが負け犬の遠吠え、引かれ者の小唄で、前田氏に理はない。しかし餘りに悔しかつたから、前田氏は俺に嘲られて、鸚鵡返しに俺に言返したのだらう。
さう云ふのを大人げないと言ふのだ。

ちなみに喜六郎は俺のした事が惡くないと言はねばならない。
喜六郎は何時も鵜の目鷹の目で俺の事を攻撃出來さうなネタを探してゐる。その喜六郎は俺が轉載してゐるのを1年前に100%確實に知つてゐた筈。そんな喜六郎が一度として轉載を問題視した事がなく、前田氏に御注進に及んだ事もないのだ。
喜六郎は俺の轉載を何の問題もないと思つてゐたに違ひない。
そもそも喜六郎は俺の文章を大量に無斷で轉載して、それを正しい事だと信じてゐる。當然、俺の轉載だつて正しい事だと言ふに決つてゐる。

俺の轉載は正しいのであり、それにいちやもんをつけた前田氏が間違つてゐる。間違つてゐるのに一々嫌みや當てこすりを前田氏は言つて憂さを晴らさうとするのだが、さう云ふ處に人の本性は現れるから前田氏は注意した方が良い。何時も叮嚀語を使つて御苦勞な事だが、さう云ふ處に性格の惡さがにじみ出てゐる。
俺は自分の性格が惡いのを知つてゐるから別に何うと言ふ事はないが、前田氏はいい人を演じたいのだらうから、ぼろを出さないやう氣を附けるべきだ。

投稿 野嵜 | 2008.11.08 01:15 午前

正直な話、前田さんが野嵜に反応するとは予想外でした。
てっきり前田さんは、野嵜に関しては徹頭徹尾黙殺する方針を採ってたと思っていたので。
野嵜健秀という男は、蝿と同じでいくら手で払ってもしつこくまとわりついてきます。
だから野嵜は今後は一切相手にしないほうが良いでしょう。
蝿の相手は私がやりましょう。

投稿 喜六郎 | 2008.11.08 10:59 午前

俺も喜六郎が未だに俺に粘着し續けてゐるのが豫想外だよ。喜六郎は俺の事を徹頭徹尾黙殺すると宣言してゐたのだから。

それにしても前田氏にしても喜六郎にしても、問題の核心から話をずらして自分を胡麻かし、氣に入らない人間の惡口を言つて好い氣になる點では完全に同類だな。

なあ喜六郎よ、お前俺に何年まとはり附いてゐるんだ? 何で自分が蝿だと未だに氣附けないんだ? 前田氏も、虚心坦懐といふことを知つてゐるのなら、どうして喜六郎が粘着で惡意の塊である事實を看過するんだ?

喜六郎も前田氏も、自分の人格を守る事、他人を攻撃する事に許り拘つてゐる。これだから駄目なんだよ。自分のしてゐる事を反省する事も出來ない。自分の頭の蝿を追へと言ひたい。喜六郎なんか、何うして自分のしてゐる惡事を自覺出來ないんだ。前田氏もかう云ふ腐つた人間の惡影響を受けて――それとも最初から腐つてゐたから、類は友を呼ぶ、で、腐つた人間同士でつるむやうになつたのか。

最う何年も人に絡んで執拗に附き纏つて呉れてゐる喜六郎に「野嵜はしつこくまとわりついてきます」なんて言はれるんだからな。前田氏も、かう云ふ喜六郎が虚心坦懷に俺の文章を讀んでゐると本氣で思つてゐるのか。それならあんたは批評家失格だ。さうだらう。
喜六郎が他人を罵る時は、全部喜六郎自身の事を言つてゐると思ふが宜しいが、前田氏にもそれは當嵌る。

投稿 野嵜 | 2008.11.08 01:00 午後

俺はただ、前田氏がウェブで言及する時に、「リンクを張らなかつた」「轉載した文面を轉載だと判るやう、前後と區別出來るスタイルで示さなかつた」と指摘したが、これはアナログの話なら「原稿用紙の書き方がなつてゐない」レヴェルの話に過ぎない。

この點で前田氏は反論不可能だが、反論不可能だからこそ前田氏は「くさされた」「不愉快」と、感情を正直に言ふ事で、恨みをはらさうとした――この「感情の正直な吐露」と「虚心坦懷にものを見る」とは全然違ふのだが、前田氏にその區別は出来ない。だからこそ前田氏は自分の惡意を正直に書連ねただけの松原先生誹謗の文章を「評論」として發表できた。

さう云ふ前田だからこそ、惡意の塊で、ひたすら俺に對して惡意を剥き出しにする喜六郎の事を「虚心坦懷にものを見てゐる」と言つてしまへるのだらう。

ところが、物を見る事が出來る批評家ならば、今そこにある惡意だつて、看過し得ない筈だ。誰が何う見ても存在する惡意と云ふものも、批評家は「事實存在するもの」として看て取らねばならない。
人間の感情だつて事實として存在するのだ。それを故意に看過するのは、「虚心坦懷にものを見る」と云ふ態度とは言へない。
前田氏は、なぜ喜六郎が惡意を持つてゐる事實を看過し、俺の文章を惡意で解釋してゐる事實を見過ごして、仲間のやうに扱つて、まるで同意したかのやうに返答出來たのか。
前田氏が「虚心坦懷」と言つても、所詮はスローガンでしかないらしい。前田氏は自分の感情が心地よく受容れられる發言のみを受容れ、自分の感情が不快に思つた事を馬鹿正直に吐露する――それを「虚心坦懷」と言つてゐるに過ぎない。


あーだとしたら、俺の事を前田氏はもつと評價しなければいけないだらうな。喜六郎もまた。

投稿 野嵜 | 2008.11.08 01:11 午後

喜六郎なんか、惡意の塊だから、俺が言つてゐるジョークや皮肉をさうと認識出來なくて、惡い意味で「虚心坦懷」に讀んでしまつて、結果として「矛盾だ」等と惡意に滿ち滿ちたコメントをつけて「ブログ」に書いてゐる。明かに俺個人をターゲットに、俺の人格を否定するだけの目的で喜六郎は「ブログ」をやつてゐる。

それを「虚心坦懷」にながめて前田氏は「保守の思想に御關心があるやうです。」と言つてゐる訣だが――さうすると前田氏は、喜六郎がもつぱら「御關心がある」俺が「保守の思想」の持ち主だと認めてゐる訣か。さうだとしたら、それは全くの誤解だからこの機會に指摘しておきたい。

もつとも、前田氏は、俺が「保守主義者」でないから嫌ひであるらしいから、喜六郎の「ブログ」を評して「保守の思想に御關心があるやうです。」と言つたのは、單に喜六郎が俺に粘着してゐる事實を見ないで、ただ喜六郎に阿諛追從を言つただけだらう。「虚心坦懷」も糞もない、「身内」に甘いだけだ。さう云ふ前田氏の態度を喜六郎は非難しないが、これも「身内に甘い」と云ふ事になる。
「身内に甘い」喜六郎も前田氏も、前述の通り、自分逹の缺陷をまともに見る事が出來ない。却つて外部にその缺陷を見出さうとする。喜六郎が「松原信者は身内に甘い」等と言つてゐたが、「アンチ松原」=「アンチ松原信者」の喜六郎や前田氏にこそその指摘は當嵌る。大體「アンチ」が「信者」を罵つて言ふ惡口は、「アンチ」自身の缺陷である事が殆どだ。責任轉嫁する性質の人間だからこそ、「アンチ」になつて他人を侮辱して天狗になれる。

投稿 野嵜 | 2008.11.08 01:21 午後

それにしても喜六郎は俺の事が本當に大好きらしいが、好きで好きで仕方がない人間が、感情が充足されないが故に執拗に相手に附き纏つて嫌がらせを續ける事がある――さう云ふ行爲を何と言ふか、喜六郎は知つてゐるか。

ストーカーと言ふんだよ。


ああ喜六郎は自分が粘着だと自覺してゐるんだつけな。もつとも、ストーカーも自分がストーカーだと自覺して、その上で「自分は正しい」と信じ込んで、犯罪行爲を何年も執拗に續ける。ストーカーは好きで好きでたまらない相手を「自分のもの」にする爲にストーカーする。今の喜六郎も「蝿の相手は私がやりましょう。」と言つて、俺を喜六郎の「所有物」にしておかうとしてゐる。喜六郎は俺を他人に渡したくないんだよ。俺にはさう云ふ變態趣味はない。俺なんか半月前の事でも忘れるくらゐだし。喜六郎のやうなしつこさを少しは學びたいくらゐだ。

投稿 野嵜 | 2008.11.08 01:33 午後

要は斯う云ふ變態の喜六郎の言ふ事なんかを「虚心坦懷」とか言つて眞に受けてゐるやうでは、前田氏の人間知らずも底なしで、批評家としての目も信用できたものではないよと、さう云ふ事。喜六郎は變態性欲を充足させる爲に、前田氏を利用してゐるに過ぎないんだから。

もつとも、それを解つてゐて利用してゐるのなら、前田氏も相當の××××だと言はざるを得なくなる。

投稿 野嵜 | 2008.11.08 01:42 午後