闇黒日記?

にゃもち大いに語る

まだ俺の文章讀めてないよ喜六郎(笑)


三度の飯より道徳が大好きだという代表的松原信者の野嵜健秀と、俺ルールの押しつけが大好きな、野嵜健秀翼賛会「野嵜喜び組」の塗炭のコンビ。

塗炭はやたらとドストエフスキーとかキリスト教道徳も振りかざして道徳道徳と連呼(彼は連呼するだけで決して語らない)するが、そもそも塗炭を初めとする松原信者達は、「日本人にはキリスト教は理解できない」というのが持論だったはず。
なのに、「キリスト教を理解出来ない日本人」にキリスト教道徳を振りかざして道徳道徳連呼しても仕方ないんじゃないのかと、私のような「愚かな日本人」は思うんだけど(笑)。
人様の道徳観にケチ付けるくらいだから、よっぽどご立派な道徳観をお持ちなんでしょうから、御開陳して頂きたいものだ。

まだこの人、「松原信者」の言ふ「道徳」と云ふ用語の意味が解つてないよ。相變らず常識的な觀念の「道徳」で「松原信者」が「連呼」とやらをしてゐると思ひ込んでゐる。

斯う云ふ、現實をありのまゝに見られない人々が、幽靈とかUFOとかを「見てしまふ」のだらうなと、今囘のカテゴリは「都市伝説」を選擇。

野嵜健秀についても同様だ。
奴は「俺は政治には興味を持たない、大事なのは道徳だ」みたいなことを宣うが、道徳道徳と連呼するだけで、未だに野嵜の信じる道徳観というものをお目にかかったことがない。
野嵜健秀は、政治はおろか大事なはずの道徳すら語っていない。
もっとも、道徳どころか法律という「最低の道徳」すら遵守していない「虹裏」なる下劣な掲示板を嬉々として閲覧してる男の信じる「道徳」なぞロクなもんじゃないだろうが(笑)。
「野嵜の信じる道徳観というもの」つて何だよ。と言ふか、俺の言つてゐる道徳と言ふもの、これは既に前の記事で定義した。そして喜六郎はその記事にトラックバックして來てゐるのだから、俺の文章を讀んでゐる筈なのだ。なのに「お目にかかったことがない」のだと言ふ。

これは、喜六郎が何かを期待してゐて、その期待するものと、俺が提示してゐるものが、根本的に違つてゐる事を意味する。俺はあの定義をしておけば十分だと思つてゐるのだが、喜六郎には滿足が行かない。「滿足出來ない」なら勝手に「滿足出來ない」でゐれば良いのだが、「俺を滿足させろ」と喜六郎は要求する。知らねえよ。宇宙人とコンタクトしてゐるんだらう、早く宇宙人を見せろよと要求されて、NASAも困つた事だらう。

喜六郎の「要求」の文章は、ただ適當に用語を繼接ぎして、それつぽい作文をしただけのものでしかない。俺の文章を讀めてゐないものだから、まるで見當違ひのただの罵言になつてしまつてゐる。これで當人、「俺今野嵜健秀(フルネーム)を論破した!」とか思つてゐるのだから處置なしだが、「俺は既に野嵜健秀(フルネーム)を論破したのだから、野嵜健秀(フルネーム)がいくら反論しても俺はそんなもの聞入れないのだ」と喜六郎は思つてゐる。喜六郎に俺と話をする氣はないので、そんな人間に何かを言つてやる必要はない。對話する氣もない人間相手にまともに應對する馬鹿はゐないのであつて、俺も端から喜六郎のやうな馬鹿猿には眞面目に反論なんてする氣がない。
今囘は、と學會のやうに、トンデモさん並に人の言葉が理解できない「自分の頭の中の概念だけで物事を判斷しようとする」喜六郎のトンデモ發言を嗤ふ爲に記事を書いたに過ぎない。

明治天皇は暗殺されていたのです」竹下義朗とか「引用ではない文章を見て引用する時仮名遣を改竄するなと因縁を附ける」惡性氏とか、或は「字数歌」やら「万葉集の真実」やらの老人氏、果ては某「やっつける会」会長と、俺に侮辱を加へて呉れる輩は例外なくトンデモさんなのは何なのだらう。喜六郎もまたトンデモさん以外の何者でもない。自覺がない邊が眞性。

それにしてもトンデモさんつて、なぜか例外なく品がないんだが、本當に何なのだらう。トンデモさん、下卑た事を言つてなぜか「俺今物凄く痛烈な批判をした!」と思ひ込むのだけれども、常人ではあり得ないよな。