闇黒日記?

にゃもち大いに語る

野嵜健秀さんこと「義」へ


「義」の騙りに氣附いて書いて呉れた人。何うも有難う。

野嵜健秀さん (free)
2008-09-29 09:23:28
http://greengablez.net/docs/noz
創価学会の方は本名で書き込みをされる方が多いですが、私は本名はトラブルの元ですからハンドル名をお使いになる方が良いとお薦めしております。
野嵜健秀さんの場合は特定の方への嫌がらせのようですね。お気の毒な方です。

ところで「お 母 さ ん と 公 園 の トイレに入 る 時 に は 、首 を 絞 め ら れ な い よ う 気 を つ け ま し ょ う 。」の発言はすべての母親への中傷にあたります。

「3代創価学会」でも救えなかった福岡「小1殺害」富石薫容疑者の孤独 10月2日号 週刊新潮にも記事が載っていますね。

このニュースを聞いたときに母親の心の闇を想いました、そして貴方も心に深い闇があるようですね。

勘違ひしてさつき反論のコメントを書込んでしまつたのだけれども、ぶろがーの人、わかつて呉れて承認しないでおいて呉れるかな。


さて、「義」は、見た人が「野嵜健秀と云ふ人間が書込んだ」と思ひ込んで憎んで呉れる事を期待して、俺の名前を騙つて書込んでゐる。これは、しかし、わかる人はちやんと「わかる」、と云ふ事は、事實として指摘せねばならない。と言ふか實際最うウェブ中何處へ行つても判つてしまふ状況になつてゐる。
今や、ウェブで嫌がらせをすればするほど「義」の方が不利――と言ふより、今囘の場合、「義」は憐れまれてしまつてゐる。

もつとも、「義」の場合、昔から憐れまれても全然懲りないばかりか、却つて居丈高になつて、暴言を吐き散らして憂晴しをしようとするのだ。困つた人間もゐたものだと思ふ。げんなり。


不正なやり方では、ばれたら何の效果もないばかりか、逆の結果になつてしまふ。當り前の話だ。不正は糺彈されるべき事だからだ。
だから俺は絶對不正な方法はとらない。俺は何を言ふ時でも、常に批評として正當なものになるやう努めてゐる――「義」は、だからこそ「野嵜が不正をしてゐる」やうに見せかけようとしてゐるのだらう(「義」に限らない、俺の事を憎んで足を引張らうとする連中は必ずそれをやる)。けれども、「見せかけようとする」行爲それ自體が不正だ。だから、判る人は判つてしまふし、さう云ふ人は、不正を不正と判れば、許す事は出來ない。
一方、判らない人はそもそも訣がわからない。そもそも、わからない人は俺の事もわからないし、コピペの文章の意味もわからない。何と言つても怪文書なのだから。訣が解らないのは當り前で――ただ怪しむだけだ。
ならばこんなコピペは何の意味も持たない。大體、こんなコピペを見て、眞に受ける人間はゐないだらう。ゐたとしても少數に留まる。さうでなければ世の中まともに動いて行かない。


結局のところ、例の「山崎渉」の騙りと同じで、みんな「義」だと「判つてしまつてゐる」。ウェブでは「義」の存在が廣く知れ渡つてをり、この手の「野嵜の騙り」は最早「野嵜の騙り」として通用しない状況になつてゐる。特に「義」は狹い範圍でしか活動してゐないから、その中では大體状況が知れ渡つてゐる。そこで「義」が何をしたところで、ただ俺の事が「気の毒」であると思はれるだけの事。「義」の思ふ通りにはならない。世の中、正義は「何時でも勝つ」と云ふ訣ではないにしても、それなりに通用してゐるのだ。


ところで、俺が本名を出してゐるのは、最初に出してしまつたからだ。十年前、まだウェブが商用利用され始めた初期の頃の事だ。俺はそれ以前のインターネットの傳統を守る積りで――インターネットは素性を明かにして物を語る場だつた――本名を出してゐた。そして、時代はどんどんどんどん匿名化に進み、ウェブは非道いアングラな世界になつてしまつた。
そして「義」に限らず、俺を附け狙ふ人間が大量に現れて、俺を名指しで攻撃し始め、攻撃し續けてゐる――斯うなると最う名前を引込める訣には行かない。俺のやうな何もバックに存在しない、一個人であつても、最う後には引けない。だから「仕方なく」本名を出し續けてゐる訣だが、それを俺を攻撃する人間――喜六郎は「賣名行爲だ」と威張つて非難する。喜六郎らが名指しで攻撃を仕掛けて來るから、こちらも名前を守る爲に名前を出してゐるのだ。人の人格を問題にして、粘着的に攻撃してくる輩は、何時でも自分逹に都合の良いやうに事實を歪曲して、氣に入らない人間を叩かうとする。喜六郎も「義」もその點では全く變らない。そして、俺が反論しても、俺に反論される理由が自分逹にあると認識できないで、俺が××××のやうに「叩いて來てゐる」と思ひ込んでしまふ。
「義」にしても喜六郎にしても、自分だけは善良な人間だと――僞惡的な態度をとつてゐるがゆゑに自分は善良だと――勘違ひしてゐる。嫌がらせをしてゐても、嫌がらせを「させてゐる」奴がゐると、彼らは責任轉嫁をして、自己正當化をしてゐる。これほど許し難い事はない。