闇黒日記?

にゃもち大いに語る

マスコミ v.s. 「ネット言論」とやら

yuuさんが、非常に珍しく、「謎」と云ふ文字を使はないで記事を書いてゐる。

「マシな新聞、マシなテレビ局って何処?」
http://securecat.exblog.jp/9315300/

昨今の報道機関とその報道内容の多くは本当にひどいと思うが、とはいえ、何らかの報道機関からのニュースを得ないことには、情報を得ることができないわけで。となると、ある程度マシというか、情報を得た人が判断できるような、そういう判断材料の提供に徹しているというか、そういう報道機関はどこなのかっていうことになる。

純粹に事實だけを偏りなく傳へる報道機關――なんてものはあり得ないと承知してゐるから(今の人は何でも承知してゐる)、「マシ」な機關はないかと質問してゐるのだが、コメントが附いてゐて、通信社の情報は何う、と。

yuu先生は納得してゐるのだが(「マシ」と言へば「マシ」なんだらうと諦めての事と思ふ)、何うなんだらう。

一方。おなじみ喜六郎先生。

「マスコミのネット言論潰しか?」
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/109.html

どうもマスコミ人士には、既成のマスコミへの不信がネット言論を活発させているということに気づかないらしい。
マスコミが「社会の木鐸」としての役割を果たさない限り、ネット言論が衰えることはないだろう。

こちらは、例によつて「マスコミ」と「ネット言論」の鬪爭と云ふ形で事態を解釋する記事。
「この記事には、ネット炎上事件を針小棒大に報道して自分たちに都合の悪いネット言論を抑圧しようとするマスコミ人士の目論みを感じる。」とか言つてゐて、例によつて喜六郎先生は感じてしまつてゐるのだが、兔に角「對立構造」で解釋し、その「構造」を外部から眺めて自分は「客觀的だ」と安心しようと目論んでゐる樣子が手に取るやうに判る。

yuu先生にしても、喜六郎先生にしても、自分を客觀的で中立の立場に起きたがつてゐる點では全く共通してゐる。yuu先生の場合にはより「マシ」なものを選ばうとしてゐる點で多少違ふけれども――何れにしても、自分に「立場がある」自覺が缺けてゐるやうに思はれる。

完全に客觀的で、全ての物事を相對化して認識し、本當に自分の立場を離れて事態を判斷出來る人間は、この世に存在しない。何んな人間にも價値觀があり、その價値觀に基いて物事を判斷する。
「中立の立場」と云ふのは、さう云ふ客觀的で相對化の徹底された立場であるが、そんな立場は嚴密にはあり得ない。ところが、多くの人がさうした立場に自分が立ち得る――と言ふより、「自分は既に完全に中立の立場に立つてゐる」と信じてしまつてゐる。これは危險な事だ。
喜六郎先生が典型なのだが、自分を傍觀者として位置附け、客觀的な立場から物を言つてゐるかのやうに振舞ふ――その振舞ひが、ただ、自分を權威ある人間に見せかけ、他人を見下ろす視線で物を言ふのに便利である爲に採用されてゐるに過ぎない時、その人は自覺ナシに大變偏つた物の見方を開陳しつゝ、それを反省する事が出來なくなるからだ。

我々がとれるのは、「公正な立場」と云ふもので、これは自分が偏つてゐる事實――自分が特定の・特殊な價値觀を持つてゐる事實を認めた上で、相手にも價値觀がある事を認識し、それら全てを事實として受容れる、と云ふ意味で「ありのまゝに物事を見る」態度をとる事を言ふ。客觀的な事實を認めつゝ、主觀的な價値觀と云ふ事實もまた認める立場だ。實は、斯うした立場を意識する事でしか、世の中、言論と云ふものは成立たない。

相手の言ひ分を聞くと云ふ事が先づ基本的に必要な事だが、自分に偏りがある事を承知した上で、相手もまた相手の價値觀をもとに物を言つてゐる事を認識し、その上で、相手の論理を正しく解釋しようとする――その時、自分で自分の價値觀を認識し得てゐるのなら、自分の價値觀で相手の論理を歪曲する事が自覺可能である。もしその歪曲が「ある」と自覺出來たのなら、その歪曲を排除する事も可能である。これを意識してしようとする態度が公正な態度と云ふものだ。端から「俺は中立だ」「客觀的だ」と思ひ込んで、擅に相手の言ひ分を解釋してしまつては、歪曲は殘つてしまふ。それを排除する爲にも、自己の偏りが意識されてゐなければならない、と云ふ事だ。
もちろん、こんな事は常識でしかない――ところが、常識であつても、案外我々は意識して實踐出來ない物だ。常識的な事であつても――と言ふより、常識的であるべきである事だからこそ、何度でも繰返し同じ事を言ふのは必要な事だ。人は、自分の價値觀を自覺しつゝ、それによる歪曲を極力排除する努力を通して、ありのまゝの他人の價値觀に接しなければならない。

が、此處からが重要なのだが、もしそれが出來るのであれば、何んなに偏つた情報源からでも、我々はちやんと事實の核心を掴む事が出來るのである。なるほど、隠蔽工作が行はれて、何も出て來ないのであれば、我々は何があつたか、知る事もできまいと言へよう。が、情報源があり、或種の價値觀を通して情報が傳はつて來るのなら、その價値觀による歪曲と云ふフィルタを解除して、我々は事實の核心に迫る事が出來る。
少くとも、今の日本に於ては、それなりに情報は出て來るのであるし、ならばそんなに心配する必要はない。殊さら心配して見せるのは――實はそれ自體がその人の價値觀の發露である。實は、と言ふほどの秘密でもないし、大袈裟に言ふほどの事ではない。ただ、さうした大した事のない事態を殊さら大事と思つて、大きな聲で論じようとする人がゐるから、冷水を浴びせたいだけの事である。多くの人にとつて重要な事件は、さうさうあつたものではない。明日の天氣ほど、自分自身に直接かかはりのある事態なんて、滅多にあるものではない。給付金にしても創價學會にしても、ただ「同じ国」の出來事なり何なりである程度の繋がりしかないのであつて、そんなに眞劍に考へる必要のある問題でもない。

世の中に起きる殆どの事件は、まあ、大した事のない、何時の時代にもあつたやうな事だ。さう云ふ物は或意味無害であり、報道されてもされなくても構はない――何時でも「ある」と心得ておけば良い事だ。何處其處で殺人が起きた、火事が起きた、或は税金が上がつた、經濟が何うした、その程度の事で我々はそんなに驚かなくてもいい。政局の事を本氣になつて考へる必要もない――否、考へたつて良いが、ただ表面的な政治の動きなんてものを一生懸命論じたつて時間潰しにしかならない。結局のところ、我々日本人の政治において重大な缺陷は、理念・理想と云ふもの拔きで、ひたすら政局を問題にしてしまふ、と云ふ事なのだ。人殺しや株價は、價値觀と何の關係もない。或意味無害な事だ。一方の政治だが――民主主義と云ふ事に對して日本人は何の考へも持つてゐないし、ただ、用意された民主主義の體制が「ある」と云ふ事で、そのシステムの中で動く事だけを考へてゐる。世の中は「ある」のであり、世の中を「何うする」とは考へない――考へても、當座、何うした方が利益であるからさうした方がよい、程度の主張しか出來ない。民主主義を守る爲には、でも、自由を實現するには、でも、日本人は青臭い書生論としか看做さないし、自分でさう云ふ考へを持つてゐても、さう云ふ考へを表に出すのを極度に輕蔑する。

斯うした價値觀と云ふものの存在それ自體を封印しようとする態度が日本人の間に蔓延してゐる事は、抑壓された價値觀が潛在的に人間を支配し、強力な偏向を生じてゐる事を意味する。日本人には、何でも自分が客觀的に物を言つてゐるかのやうに思ふ傾向がある。最初に述べた通り、人間が偏つてゐない訣がないのであつて、偏りがあるのを認めるがゆゑに數で物事を決める「約束」としての民主主義が成立する。日本の場合、數で決めるのを單なる約束と看做す事が出來ない人が極めて多い。價値觀の存在そのものを認めないがゆゑに、我々は價値觀を守る爲の約束を屡々無視する。中立と云ふ立場の宣言が、事實としての中立を言ふのでなく、ただ自分を優位にしようとする戰術的な發言であるに過ぎない事は大變に多い。
さうした状況下で、我々のマスコミは、何處も不偏不黨の立場を謳ひながら、朝日は左で産經は右、等と言はれてゐる。これに對して「ネット言論」が自らの優位を言ふとしたら――しかしそれもただ、優位を確率せんが爲の戰術であつて、事實を客觀的に述べたものでない事は明かである。

喜六郎先生は、斯う書いてゐる。
確かに事実無根な中傷や犯罪予告は悪だと思うし、ブログを炎上させるのは良い事とは思わない。
ただ、炎上するブログってのは、大抵炎上させるような事を書いちゃうからなんだよね。
俺は「闇黒日記」で指摘したが、マスコミは「炎上」と云ふ派手な現象を派手であるがゆゑに盛に言立てる。ところで「ネット言論」の側はと言ふと、派手であるがゆゑに、やつぱり「炎上」と云ふ現象に著目する訣だが、喜六郎先生の場合、その原因を分析して見せて――分析して見せるとは、事態を矮小化して見せる、の意にほかならない。
詰らない矮小化であり相對化にすぎないのだが、斯うした相對化だけでメシを食つてゐる批評家と云ふ存在は非常に多く、オピニオン雜誌邊にはごろごろ轉がつてゐる。そして、「ネット言論」と言つてゐる人々だが、案外、自覺ナシに、その手のオピニオン雜誌の論客諸氏の口眞似をして、或は態度を眞似してゐるだけの事が多いのだ。小林よしのりのフォロワーは一時期大繁殖して「コヴァ」等と言はれたが、喜六郎先生のやうな價値相對主義者も一時期結構見かけたものだ。小林よしりんフォロワー諸氏は微笑ましいものだけれども、一方の價値相對主義者と云ふ奴、これが問題で「自身には偏りが全くない」と云ふ大前提で物を言ふものだから、その發言に何も偏りのないと云ふ事が絶對に無い、と云ふ恐ろしい事態に陷つてゐた。喜六郎先生も、當然の事ながら、毎度毎度、偏りに偏つた發言を繰返してゐる――そして、たちが惡いのは、當人に、自分には偏りがあつて、それを排除しないで事實を歪曲してゐる、と云ふ認識がない事だ。

喜六郎先生の場合には、「マスコミ人士」の「目論見」は良く見える訣だけれども、その「目論見」を見出してしまふ自身の價値觀は絶對に見えない。喜六郎先生自身は、ただ「相對化」をしてゐる意識があるだけだ。これが一番危ない。

ただ、炎上するブログってのは、大抵炎上させるような事を書いちゃうからなんだよね。
この記事には、ネット炎上事件を針小棒大に報道して自分たちに都合の悪いネット言論を抑圧しようとするマスコミ人士の目論みを感じる。
マスコミ人士に「抑壓」させる契機を與へてゐるのは「ネット言論」の責任ではないのか。

喜六郎先生の考へが足りないのは何時もの事だが、毎度御粗末なものだ。
今囘の場合、喜六郎先生、自覺ナシに價値觀を發顯させて、「ネット言論」に肩入れし過ぎたがゆゑに、「ネット言論」の責任を問ふ事をせず、ひたすら「マスコミ人士」を責める不公正をやらかして、結果として「ネット言論」に都合が良いだけの御都合主義的「論理」になつてしまつてゐる。
斯うした「自分に都合良く物事を讀む」傾向は、日本人に非常に多くあるものだが、それに基づいて脆弱な論理を振囘すのも日本人には非常にありがちである。これをやつて平氣であるのは今が平和だからだが、いざと言ふ時に身勝手なだけの論理を振囘しても、何の役にも立たない。平時から、我々はそれなりに自己の立場を辨へるやり方を身に着けておくべきであらう。