闇黒日記?

にゃもち大いに語る

喜六郎が誤讀に基づいて俺を嘲つてゐる事

喜六郎はなぜ「荒し」と云ふ言葉にだけ注目したのだらう。それは、それ以外のところで、俺に反論する事が出來なかつたからだ。

――と俺は思つて來たのだが、何うやら違ふらしい。


「他人を非難して何が樂しいのですか」とか言つて俺を非難してくる人がゐるけれども、何を考へてゐるのだらうと思ふ。野嵜を非難して樂しむ自分は許せるのに、野嵜が「他人を非難してゐる」のを許せないと言ふ。自分だつて他人を非難してゐるんだよ。なのに「他人を非難するな」と言ふ。本當に「他人を非難してはならない」と思つてゐるのなら、俺を非難する事だつて出來ない筈だ。それが出來てしまふんだからいんちきだ。
實は「他人を非難してはならない」なんて誰も本氣で信じてゐないんだよ。ただ他人に言ひがかりをつける時、便利に使へる理由だから皆何も考へないで適當に言つてゐるに過ぎない。さうでなければこんなにも出たら目な惡口が無反省に氣樂に言はれてゐる理由が解らない。
他人を非難し去つて快感を覺えるのは御互ひ樣の事なんだよ。この事は、ウェブであれ何處であれ、何か物を言はうとする人は全員、よくよく肝に銘じておく必要がある。そして、御互ひ樣だから、その程度の事で一々他人を咎める事はないんだよ。當り前だ。咎める理由もないのに咎めるから、向きになつてしまひ、變な事になつてしまふ。
「人を非難するな」なんて言はなければ一番話がすつきりする。「人を非難するな」と言ふから、話が全く進まなくなる。議論をするなら、「人を非難するな」なんて言つてはならない。そして、議論をする氣がないなら――最初から口を噤んでおく事だ。口を出した時點で議論に參加する意志を表明してゐるのであり、議論に參加してゐるのなら他人の意見の價値を判斷するのは必然だ。價値の判斷をすると云ふ事と、人に意見すると云ふ事とは全く同義だ。「非難するな」と言ふのは「價値判斷するな」と要求するのと同義であり、價値判斷しないのなら、議論は存在しない。要は議論を認めるか否か、と云ふ事だが、物を言つた時點で既に議論に參加してゐるのであり、議論を認める認めないでうだうだ言ふ事は許されない。それを許されると勘違ひしてゐる人がウェブには多過ぎる。
「議論の仕方」で、「人の惡口を言ふ」とか「人を非難する」とか、態度を咎め立てする事はナンセンスなんだよ。ただ反證可能の事を言つて、反論を受附けられるやうにしておく――その事に氣を附ける必要があるだけだ。議論は、意見を言ふ事、その意見それ自體に反論する事だけが重要だ。その意見の言ひ方にいちやもんを附けるのは、議論を妨碍するのと同義だ。名譽毀損なり侮辱なりになつてゐる・それが目的で言はれてゐる惡口であるのが明かである場合にのみ――惡口を言つてゐる人間が議論をする氣など毛頭ない場合にのみ、その論者の態度の惡さを指彈して良い。それは議論の場において議論しない事の問題であるのだから。
――實際、態度なんか何うでもいいんだよ。態度から先のところが重要なんだよ。議論では、論者に積極的な主張があるかどうかだけを問題にしなければならない。何も主張がないのに、他人のしてゐる「主張の仕方」を云々する――これは明白に議論を妨碍するのが目的だ。或は、相手を默らせるだけの目的で、言掛かりをつけてゐる。
實際――喜六郎を見てゐれば判るだらう。喜六郎には何も主張がない。ただ他人の足を引張つて喜んでゐるだけだ。喜六郎は、議論に參加する意志も何もない。だから喜六郎は一種の荒しであると言つて良い。自分は意見を言はない、他人の意見をきく氣もない。ただただひたすら他人の態度だけを問題にしてゐる。議論を邪魔して樂しんでゐるのだ。
前田氏も喜六郎と同じ事をやつてゐる。或は――俺には前田氏が樂しんで文章を書いてゐるだけのやうにしか見えない。前田氏の「知識人批判」――しかしそれは、「知識人と云ふ他人」の惡口を言つて、自分が如何に悧巧であるかをアピールしようとしてゐるだけの事だ。喜六郎が樂しんで俺を侮辱してゐるやうに、前田氏も樂しんで「知識人」を罵倒してゐる。が、それで前田氏は何か言ひたいのか。「知識人の態度は惡い」、さう言つてゐるだけだ。何の意味もない行爲だ。そして、彼らと彼らの非難の對象との間に、人間的な關係は存在しない、赤の他人である。ただの他人事である。他人事に本氣になつて怒るのは勘違ひだが、他人事に本氣になつて怒る勘違ひには陷らないと言ひつゝ何時までもその赤の他人に執着してゐたら――それはやつぱり頭のをかしい人間の行爲だ。喜六郎なんか、俺に執着すべき必然的な理由は存在しない。喜六郎と俺とは赤の他人だ。赤の他人なのに、なんで喜六郎は俺に執着してゐるのだらう。前田氏も、福田恆存やその他の人々と、何か關係があるのだらうか。
前田氏も喜六郎も、怒つてゐないのに、他人の惡口を言つてゐる。氣樂に言つてゐるやうにしか思へない。

これを見て、喜六郎はかう言つたのだ。

http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/123.html
荒らし行爲どころか一度も野嵜のブログに書き込んだ事がないのに何故荒らし認定されなきやならないんだらう?
馬鹿も休み休み云ふがよい。

大學受驗を經驗した事のある人なら――と言ふより、大學受驗の爲の勉強をした事のある人なら、此處まで的外れな語句の解釋をしてゐたら、大學受驗に失敗する、と云ふ事は解るだらう。
國語の試驗問題で「傍線部の意味を書け・以下の選擇肢から選べ」と出題された時、正しい答を出す爲には、文脈を讀取らなければならない。
――これはただの受驗テクニックではないんだよ。一般に、文章を讀む時には、誰もがきちんと辨へてゐなければならない、當り前の態度なのだ。
文章を讀む時には、書き手の意圖した意味で語句を理解しなければならない。書かれた語句を、前後の文脈と無關係に、自分が知つてゐる意味で解釋してしまつてはならないのだ。さう云ふ事をするのは誤讀だと言つて良い。

喜六郎が今囘したのは、まさにこの誤讀である――と言ふより、喜六郎は毎囘、斯う云ふ誤讀をやらかしてゐる。自分勝手に他人の文章を讀んでゐるんだな。それでゐて、自分は正しく讀取つたかのやうな顔をして、平然と偉さうな口をきく。
恥かしいにも程があると言ひたいが、案外日本では斯う云ふ馬鹿な行爲が馬鹿な行爲だと思はれずに受容れられてゐるから、喜六郎も恥ぢる機會を持てない。


俺が何う云ふ意味で「一種の荒し」と言つたか――喜六郎は正しく讀み取らず、自分の知つてゐる「荒し」の意味で解釋しようとした。誤讀である。

喜六郎の言ふ「荒し行爲」と、俺の言つた「一種の荒し」とは、同じ意味ではない。そんなのは、俺の文章を讀めば解る事だ。前後關係から、俺の言つてゐる「荒し」の意味を喜六郎は讀取らなければならない。ところがその人間ならば必ずしなければならない義務を、喜六郎は怠つた。知的怠惰である。

喜六郎は、「荒し」と云ふ文字面だけを見て、俺の言つてゐる事を勝手に解釋してしまつた。全く愚かな事だと思ふ。


實は、斯うした誤讀によつて責められた事は、喜六郎にだけではない。例のアレクセイにも俺は同じやうな非難の仕方をされてゐるのだ。
彼らがなぜ俺の主張の肝心要の部分に反論せず、ひたすら表面的な語句に拘るのか。なぜ俺の主張を勝手な解釋で誤解し續けた(續けてゐる)のか。

彼らは、本當に無知であるか、或は、反論出來ないところから逃げて故意に揚げ足取りと云ふ戰術に走つたか、してゐるのだ。が、何うも彼らには大した頭は無ささうなのだ。彼らが無知であると云ふ風に説明した方が、何うもすつきり話の筋が通りさうな氣がする。


俺は次の日、斯う書いた。
自分にとつて不都合な事であつても、眞實ならば認めなければならない――さう云ふ意識から眞實を追求するか何うか。そして、さう云ふ眞實をこそ闡明せよ、と云ふ主張。
力づくでも何でも自分を目の前の特定の誰かに認めさせたい。さう云ふのを「積極的な主張」だと看做す事は出來ない。少くとも、さう云ふ「主張の仕方」をしても、何年後か、何十年後か、或は何世紀後かに誤だと判定される、さう云ふ事をしたその人は卑劣であつたと指摘される日が來る――逆に、その時は暴力で潰されても、眞實であつたならば長持ちする、何年か經つて再評價される。或は、埋もれて、後年、別人によつて改めて主張されて眞實と判る。さうした時、再評價される――或は、されないかも知れない――。さうした眞實をこそ、主張する必要がある。
なぜ誰かが主張した、と云ふ事を一生懸命論ずるのか。その誰かの態度を――言葉遣ひのやうな皮相なレヴェルで――論ずる。下らない。そんな「論」は、當人、如何に「いい」と思つてゐても、或は周圍の人間に禮讚されても、結局高く評價される事はない。される訣がない。百年經つて、千年經つて、讀まれた時に、高く評價されるか否か。下らない揚げ足取りや、輕薄な揶揄――そんなものが、それだけの後に、相變らず高く評價されるか。少くとも、今現在の「同志」の連中――アンチの御仲間でもいい――に贊同されてゐても、それだけではその「論」に「價値がある」と看做して良い理由にはならない。ならば、そんな主張は、そんな「論」は、消極的で、後ろ向きなものだ。
パスカルの言葉にしても、或はイエス・キリストの言葉にしても、世紀を越えて後人に影響を與へ、感銘を與へてゐる。さう云ふ言葉を、我々凡人が容易に吐く事は出來ない。が、だからこそ、そんな立派な事を言つて、後世に殘るやうに、努めるべきでないか。歴史的な發想を我々は持つ必要がある。そして、さう云ふ歴史的な觀點から意義を見出す態度をこそ、俺は積極的な態度だと思ふ。

喜六郎は、この俺の文章を讀んでゐないと思ふ。或は、讀んでも理解出來なかつたのだらうと思ふ。理解できたら、「荒し行為」などととんちんかんな事を平氣で言へたりはしなかつただらう。


しかし喜六郎――うちの「ブログ」に宣傳目的のトラックバックを送りつけ、結果として本當に荒しとなつて見せて呉れたのだから、全く以て濟はれない。
喜六郎は粘着であり荒しである。