闇黒日記?

にゃもち大いに語る

喜六郎は絶對に反論しない

喜六郎と云ふ人物が如何に惡質かを改めて述べる。


しかし、この本に影響を受け、「正字正假名遣ひ」の実践を試みる人達の言動を見ていると首をかしげざるを得ない。 この本に影響を受け、ネット上で「正字正假名遣ひ」を実践する人達がいるが、そういう人達の中に、自分たちを「正字正假名を体得している意識の高い日本人」と規定し、「正字正假名を読めない書けない意識の低い日本人」を罵倒する、安直な知的スノッブのパターンに嵌まっている手合いが少なくない。

「自分たちを「正字正假名を体得している意識の高い日本人」と規定し」てゐるのは誰か。「少なくない手合い」がさう「規定し」て罵倒をしてゐると喜六郎は言ふが、具體的には何處の誰か。

喜六郎は、示唆するだけで、「誰」とはつきり言はない。これは卑劣だ。
福田恆存を干した人物を、福田氏がたまりかねて評論で非難した時、しかし福田氏は名前を出さなかつた。松原正氏はその時だけは福田氏になぜはつきり猪木正道の名前を出さなかつたのかと問ひ質したと云ふ。


福田恆存は『私の國語教室』に斯う書いた。

もちろん、この「無知」は「無智」ではありません。文字どほり、知らぬことを意味してをります。そしてその無知であることは無關心であることの結果にほかなりません。私は昭和三十年、三十一年に、金田一京助博士との論爭の形式において、「現代かなづかい」と「当用漢字」の非なることを述べました。そのときに痛感したことですが、その私の所論は當事者、ならびに多くの國語問題研究家をこそ刺戟しましたが、一般はただ喧嘩好きの私が例によつて例のごとく新しい喧嘩相手を見つけたくらゐにしか思つてくれなかつたことです。大抵の人が喧嘩の事實は知つてゐても、私の文章を讀んでくれてはゐないのです。しかも、論爭は「水掛け論」あるいは「泥仕合」の樣相を呈してきたなどといふものまで出て來る始末でした。讀んでゐないから、さういふのであつて、問題は讀んでくれぬことにあり、讀んでくれないのは、關心が無いからであります。私はかならずしも國語學の知識がないからだとは思ひません。
結局は關心の有無といふことにあります。關心が無いため、あるいは關心があつても、その焦點が異るため、國語についての同じ知識が國語改良論者に都合のいいやうに動かされるといふ結果になつてゐるのではないでせうか。私は國民一般にとは言はない、右に規定した人々にお願ひします、國語問題に、そして國語に關心をもつていただきたい、あるいは正しく關心をもちなほしていただきたい。もちろん、自分たちの國語に無關心でゐることは、普通には健康であることの證據なのです。文學者の場合ですら、さうであります。何事によらず、自意識過剩は一種の狂氣でありますから。が、他に極端な自意識過剩が、狂氣が存在するとすれば、どうするか。私は國語改良論者は狂信的であるといふ海音寺潮五郎氏の言葉に同感です。たしかに國語國字問題には、いや、一般に言葉といふものには、下手にこれに對すると、人を狂的にする何ものかがある。言葉は誰にとつても身近にあるものです。言葉は自分の外にあつて、しかも自分の内にある。自分の肉體と同樣に、自分の意のままに操れるものであり、しかもどうにもならぬものであります。したがつて、それは人を自意識過剩に導き、自慰に墮せしめる。さういふ誤つた過度の關心が問題を推進し、現實を動かしてゐるのです。それゆゑにこそ、私たちもそれを阻止するために、一度は國語問題に關心をもたねばならぬといふわけです。
『私の國語教室』「序」より。

福田氏は、「無智」ではなく「無知」であると述べた。問題は「關心」のない事だと指摘した。
關心の有無が問題だと福田氏は言ふのだ。この話を、喜六郎は「正字正假名を体得している意識の高い日本人」と「正字正假名を読めない書けない意識の低い日本人」の對立にすり替へてゐる。知識の有無を、「意識の高低」にすり替へてゐるのだ。

いや、すり替へたのは喜六郎ではない、「一部の読者」だと喜六郎は反論する。だから訊ねるのだ。その「読者」とは具體的に誰だと。何時、何處で、誰が、何と言つた――もちろん、喜六郎は答へない。
答へたら、喜六郎は負けるからだ。或は、そもそも答へられないからだ。

そんな「意識」の「高さ」を誇つてゐる「読者」など、現實には存在しないのだ。或は、福田氏の文章を誤讀して「意識」の高い低いに、それこそ意識が行つてしまつてゐる讀者が「ゐる」とすれば、その讀者は福田氏を誤讀してゐるのだ。

が、さう云ふ誤讀をやらかしさうなのは、福田氏の讀者ではない――喜六郎だ。喜六郎は俺の文章を誤讀した「實績」がある。
喜六郎こそ、「意識の高い低い」等と云ふ、福田氏が思ひもよらなかつた事に思ひを馳せる人物である。さう云ふ自分の興味に基いて、福田氏の文章を讀んでしまつてゐる事は、十分考へられる。と言ふより、「福田恆存が国語問題にかけた情熱は本物だと思うし、この本も名著ではある。」等と、「水掛け論」だの「泥仕合」だのと言つたおざなりな「批評」と五十歩百歩の簡單な「批評」で話を濟ませてしまつてゐる喜六郎が、何處まで福田氏の事を正しく理解したのか、甚だ疑問だ。

取敢ず、喜六郎には、具體的に、何處の誰が何時、何と言つて、「「正字正假名を読めない書けない意識の低い日本人」を罵倒」したのか、指摘して貰ひたい。
喜六郎の解釋では駄目だ。一切の解釋が入り込まない、「意識の高さを誇つてゐる」事の客觀的な證據を、提出していただきたい。

もちろん、無理だ。喜六郎の負けである。


いいかげん喜六郎は恥を知れよ。