闇黒日記?

にゃもち大いに語る

Kirokuro氏の矛盾――政治か、道徳か

Kirokuroは、政治的信條が異るからと云ふだけの理由で、他人を攻撃してゐる。

Kirokuroは、小林よしのりを叩いてゐる。その際に、もつともらしい理由をつけて、小林氏が如何に不誠實であるかを述べてゐる。


けれども、「ダブスタ」とか云ふ理由は後附けで、小林氏が郵政問題でKirokuroの御氣に召さない態度をとつた、と云ふのが、Kirokuroが小林氏叩きをやつてゐる理由なのだ。


さらに欄外で鳩山邦夫総務相を更迭して日本郵政の西川社長の続投を認めた件については一言も触れずに、衆院解散後に市場原理主義見直しを宣言した麻生総理を絶賛してたが、衆院解散後にそんな宣言したって選挙対策としか有権者には思われないのに、無理矢理賞賛してみせるのが何とも痛々しい。

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一方――Kirokuroは、近頃ずつと、城内実氏を支持する姿勢を見せてゐた。なんか郵政がらみでKirokuroの御氣に召したらしい。
それが、城内氏が何かの問題を起して、Kirokuroは、隨分「狼狽した」やうで、城内氏叩きをやつてみたりしてゐる。


が、Kirokuroは、政治的信條を同じうする城内氏を、徹底して叩く事が出來ない。
投稿者:kirokuro
2009/8/2 0:42
追記
これ以上選挙妨害したくないんで、城内批判はこれで打ち止めにします。
今後は城内支持者とは距離を置いて独立独歩で応援というか静観します。
「靜觀」と云ふ立場を取るのは、私には逃げにしか見えないのだが――Kirokuroは都合が惡くなると必ず斯う云ふ逃げを打つ。

Kirokuroは、政治に多大な期待を抱き、政治的信條を同じうする人には非道く肩入れする一方、政治的な敵は搦め手を用ゐてでも潰さうとする。
と同時に、政治問題にしても何にしても、論ずるには資格が要ると信じてゐて、「大人の態度」をとる事が最低限必要だとでも考へてゐる。らしい。
だから私をガキと思つて叩いてゐるのだが――私の隙だらけの「言説」を、隙だらけであるとしてKirokuroは叩いてゐる。
しかしさう云ふ精神論を、Kirokuroは城内氏に對して向ける事が出來ない。

その邊の矛盾は、Kirokuroも自覺してゐるのであり、ただその自覺から逃れる爲に、「靜觀」とか尤もらしい事を言つて、判斷中止の領域に逃げ込んでしまふ。

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私は隨分Kirokuroに叩かれてゐるけれども、彼(彼女?)の政治的信條に私の價値觀が合致しないのが原因である事は、最近、はつきりしつゝある。
ところが、Kirokuroは相變らず、私の「發言の矛盾」を言立てて、自分の本心を匿さうとし續けてゐる。さうした裏表のある態度が、どれほど人の信用を損ふものか――政治を重視するKirokuroが、なぜか自分の惡い印象に無頓着である事が、私には解せないでゐる。
城内氏支持の件でも、「野嵜粘着」と云ふ事實が有利に働く事はないのだが、Kirokuroはその邊に無頓着であつた。粘着をやつてゐる異常人が或人物を支持してゐる――それがその人物にとつて、ダメージにならないかとは、Kirokuro、何うして考へる事が出來なかつたのだらう。

政治を重視するのならするで徹底すればいい。政治主義も乘越えて、政治に全てを捧げるのなら、それはそれで立派な態度だ。
――が、それならば、政治的な效果の重要性も、認識すべきなのである。「いい人」になつて、ウェブでのイメージを向上させて、人氣を得る。さうすれば、誰を支持すると言つても、多くの人の追隨を受けるだらう。それでこそ政治的目的は達成される。政治を重要だと思ふのならば、政治運動も眞劍にやれば良い。

ところがKirokuroは、政治運動でも徹底を缺くのだ。

城内氏のポスター問題だか何だかを採上げて、青臭い批判をやらかした擧句、Kirokuroは逃げてしまふ。これが城内氏にとつてどう云ふ結果を生むか。やつてしまつて初めてKirokuroは自分のやらかした事の意味を悟るのだ。「靜觀」の立場にKirokuroが逃込んだからと言つて、今さら何うなると言ふものでもない。けれども、兔に角なんとかして事態を收拾して、城内氏に迷惑のかからないやうにしなければならない。
だが、事前にその邊の事に思ひ至らず、Kirokuroは城内氏叩きをやつてしまつた。Kirokuroは運動家に徹しきれなかつたのだ。

――しかし、斯うした青臭さがKirokuroにあるとしても、それを自ら否定する政治主義的Kirokuroの立場があるのであり、矢張りKirokuroは不徹底だ。

この不徹底の問題から、Kirokuroはひたすら逃げ囘つてゐる事は、指摘しておかねばならない。Kirokuroは、自分から目を逸らさうとしてゐる。だからこそ、Kirokuroが他人を罵倒する時の文句は、より陰濕なものとなり――Kirokuroの抱へてゐる後ろめたさを露呈する結果となつてしまふ。

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Kirokuroの「ブログ」を讀む人がゐるとしたら、前に目が腐ると言つた程、案外非道いものでもないやうだ。先程見てみて、結構冷靜に見られる事に氣附いて、私はKirokuroを過大評價してゐた事に氣附いた。或は過小評價。Kirokuroの「ブログ」を、讀者の人は見に行つて呉れて構はない。

ただ、そこには、表面的な明快さと裏腹に、Kirokuroの抱へる内部矛盾が隱れてゐる事を、忘れてはならない。

斯う私に言はれると、却つてKirokuroは明るく振舞ふだらう(今となつては、リアクションさへ豫想出來てしまふ)。が、それこそが逃げだと云ふ事は、指摘されねばならない。
Kirokuroは、今までに私の指摘を一度としてまともに受止めた事がない。一方的に人を嗤ふ事で、自分の問題を考へた事がないのだ。
レトリックも冗談もKirokuroは眞に受けて見せる。が、まともに切りかかられると、Kirokuroは必ずやり過ごす――これが「戰術的な逃げ」である事は言ふまでもないが、それを繰返し續けて何年經つだらう。一度や二度やるなら、巧い巧いと褒められてもいい。けれども、それを何年も續けてゐるのなら、Kirokuroは逃げてゐる、と言はれても仕方がない。

そろそろ「まともに受ける必要もないほど野嵜の言つてゐる事は愚かである」式のレトリックで逃げるのも、飽きられて來た頃だ。
いや、「喜び組」の諸氏には受ける事だらう。マンネリもまた、身内には受ける事だからだ。しかし、「身内に甘い」事を、Kirokuroは散々非難して來た――。
惡いが、Kirokuroは「敵に嚴しく、身方に甘く」と言つて「松原信者」を非難して來たのだ。Kirokuroは、「身方にも嚴しくしろと松原信者は言つてゐるが、實踐してゐないから非難してゐるのだ」と言ひ訣するだらう。けれども、「身内に甘くていい」と云ふのがKirokuroの價値觀であるのなら、「松原信者」が「身内に甘い」のは、非難すべき事ではなくなつてしまふ。「お前らも、實際に身内に甘いだろ、批判なんてやめろよ」と、さう云ふ論調で「松原信者批判」をやる事になるだけだ。ところがKirokuroは激しく「松原信者」を非難した。これは「松原信者」が「實踐」する「敵に嚴しく、身方に甘く」をKirokuro自身、嫌惡してゐる事實を示す。
ところが、ならば、それは、精神論であり、修身であり、道徳的である。政治主義のKirokuroの立場に矛盾する。

城内氏批判をうつかりやらかしたのも、Kirokuroが、「青臭さ」とともに、「敵に嚴しく身方に甘く」を嫌ふ本心を露はにしたものと見る事が出來る。如何に身内の城内氏であつても、Kirokuroは許せなかつたのだ。が、いざ非難をしてみると、Kirokuroは途端に腰碎けになつてしまつた。周章狼狽したKirokuroが「靜觀」の立場に逃込んで、場を收めて――何事もなかつたかのやうに、Kirokuroは選擧の結果を示して見せる。

何うにもKirokuroの態度は曖昧だ。斯う云ふぬらりくらりとした態度は、嫌はれる筈のものだが――だからこそKirokuroは、激しく他人を罵倒して、自分が嚴しい人間であるかのやうに見せかけようとする。
けれども、城内氏批判を見て、私ははつきりKirokuroの狼狽を看て取つた。そこには非道い中途半端さがある。國語問題協議會問題だか何だかで私がとつた態度をKirokuroは非難したが、その時の私と同じ態度を――否、私よりもはつきりしない態度をKirokuroはとつてゐる。

Kirokuroには、この邊の問題について、はつきり自分を總括して貰ひたいものである。他人を責めるのはそれからでいい。自分に嚴しく當つてから、他人を批判すればいいとKirokuroは何時も言つてゐる。實踐し玉へ。