闇黒日記?

にゃもち大いに語る

中村保男『絶對の探究 福田恆存の軌跡』(麗澤大學出版會)より

實を言ふと福田恆存の著作をまともに讀んだのは最う十年以上も前になる。大學在學中から讀み始めて、卒業して何年かの間――福田さんの著作を購ふ度に讀んでは感嘆してゐた。
が、既に何年も經過して、私の記憶力が大變弱いものであるのは、多くの人の知る通り。福田さんの發言も、結構忘れてしまつてゐる。

福田恆存の弟子と言ふと「一番弟子は誰?」と云ふ下世話な話題が屡々人の口に上るが、はつきり「教へ子」として「一番」と言ふと中村保男氏である事は論ずるまでもない事だらう。松原正氏は、福田氏を師と仰いだが、福田氏に大學等で師事したのではないから、所謂「教へ子」ではない。西尾幹二西部邁を政治的な後繼者と看做す人は、ゐても良いだらうが、彼等は英文學者でない點で福田氏の正統の後繼者と言ふ事が出來ない。が、一番かさうでないか、といつた問題はそもそも大して意味のない事だと思ふ。

中村氏『絶對の探究』は、平成十五年に出た本で、福田氏の思想を大變眞面目に考察し、一般に紹介した本だ。評傳の類ではないが、評論の類でもない。飽くまで福田氏の發言に就いて、福田氏の考へをトレスし、追體驗しつゝ、改めて自分の言葉でまとめたものだ。中村氏は、自分を空しうして師に就いてゐるが、私意をはさまないでできるだけ福田氏に迫らうとしてゐるから、本書は福田氏の思想を知るのに大變良い。
一往福田氏の著作を讀んだけれども、時が經つて忘れかけてしまつてゐる私のやうな人間には、本書は「復習」の爲に大變便利であつた。福田氏の發言は、何れも「如何にも福田さんらしい」ものであり、それらを思ひ出させて呉れるのが、何とも嬉しい。

ぱらぱらページを捲つてゐて、何處ぞの「会長」氏の發言絡みで關聯のありさうな文言を見附けた。引いておく。

百八十三頁。
僞惡家と言へば、福田先生は「ぼくは露惡家や僞惡家より偽善者が好きだ」と言はれたこともあつて、そのとき當然ながら私が思つたのは、先生は何といふ僞惡家なのだらうといふことだつたのだが、この認識はその後、少なからぬ修正を迫られた。
徴兵制についての文章で恆存は「良き國民としては贊成だが、惡しき個人としては、倅に令状が來たら裏工作をして兵役を免除させるかもしれない」旨を書いてゐる。一般市民が讀んだら全く説得力を失つてしまふやうな言辭なのだが、まさしくここに福田恆存の眞骨頂があるとつくづく感じ入つた。何を言ひ、何を書くにしても恆存は文學魂を堅持し、公式的なことも形式的なことも一切排除した「眞言」のみを語らうとするその意思の持續は、僞善だの僞惡だのといふ次元を超えてゐた。恆存の政治論は殆ど舊き良き文學論に等しかつたのである。

百八十四頁~百八十五頁
私が福田恆存といふ名前と存在を初めて知つたのは恆存初期の評論集『平衡感覺』を通じてであることは他のところに記したが、福田恆存の初期から中期にかけての言動がまさしく平衡感覺を基としたものであつたことを物語つてゐる恆存先生の「片言隻句」(略)は、やはり讀書會「蔦の會」の席上かその直後に言はれた「場の理論だよな」のひとことだつた。
恆存先生は自他のあひだの距離はもとより、變化してやまない全體系の中でのご自分の相對的な位置にたいしても、不斷に適切な距離測定を怠らず、三島由紀夫が極右に傾いたときには、「お陰でぼくは右どころか左寄りだといふことになつてしまつたよ」と笑顏で語つてをられたものである。要するに恆存は文人生活の大半に亙つて、ニーチェではないが、綱渡り曲藝師のやうに平衡棒で舵とりをしながら激動の中期時代の山場を越えてきたのであらう。
だが、その平衡感覺時代にも終止符が打たれる時が來た。たしかヴェトナム戰爭たけなはの頃で、恆存が強硬論者だつたために「村八分」にされてゐた時期だつたのではないかと思ふが、當時湘南に下宿してゐた私は、急に衝動に驅られて日が落ちてから大磯の先生宅を訪れると、先生は「これからはもう梃子でも動かない」と脣を眞一文字にひき緊めて語られた。「今、ぼくが死んでも悲しんでくれる人は誰もゐない。女房が困るだけだ」と洩らされたのもその時だつたと思ふ。
恆存の「不動の視座」がその意味を變へたのだ。その後しばらくして或る政治雜誌の編緝者と會つたとき、「近頃、福田先生はどうなされたんですか」と訊くので、「commitされたんですよ」と答へると、相手は「批評家はcommitしちやいけないのに」と應じた。私は心の中で「先生は批評家をやめられたのだ」と呟いたきりだつた。
先生と知り合つたばかりの頃、原稿の書き方について「ぼくはやまと言葉をどんどん使う。平假名で枡目を埋めれば原稿料稼ぎに『も』なるしね」とか、「商賣に『も』ならなくちやな」とか「どうせあぶく錢なんだから」とさへ何憚るところなく笑つてきはどい冗談を口することも辭さなかつた先生が、晩年には、絶筆して隠居されるまで、金の話は禁句同然となり、何ごとにつけ、「憤怒の人」となられ、硬直とまでは言へないが硬化されて、およそ禁忌(タブー)といふもののなかつた壮年期の自由闊達ぶりが心安く忍ばれるようになつたのは確かである。
※『も』は原文傍點、(タブー)は原文振假名
※かなづかひは原文のまゝ

さて最う一つ。爺氏の發言絡みで、關聯して考へて良いと思ふ事を福田氏が述べてゐる。引いておく。芥川龍之介『藪の中』に關する福田恆存の論攷について、中村氏が要旨を纏めてゐる部分から。

百二十一頁
まづは福田恆存の『「藪の中」について』であるが、その中で福田は中村光夫と二つの點で意見を異にしてゐる。一つは、中村光夫が、この小説では「活字の向うに人生が見えてこない」と批判したのにたいして、福田は「芥川の作品には、さういふものが多い」と認め、「この作品に限らず、芥川の作品に人生を要求してはならない」とまで一般化してゐることである。
第二には、主題をめぐる意見の食ひ違ひであり、中村が「この作品のもつとも重要なテーマは、強制された性交によつても、女は相手の男に惹きつけられることがあるということです」と斷言してゐるのに對して、福田は「私が今日までこの短篇の主題だと思つてきたものは、事實や眞相は第三者の目には、つひに解らないものだといふことである。(略)問題は物語の『事實』の次元であり、事實と言へば、心理的事實もまた事實であつて、多襄丸、女はそれぞれ自分が殺したと言ひ、男は自殺したと言つてをり、それぞれ實際的には矛盾してゐるが、三つとも自分が思ひこんでいる心理的事實でしかないとすれば、矛盾は却つて主題を強調する方向に働くのではないか」と讓らず、三者おのおのの心理状態もしくは主觀的・相對的な内面世界を竝立させる。
※かなづかひは『絶對の探究』における引用文のまゝ

福田氏の「心理的事實もまた事實である」と云ふ發想は、自然科學の發想と根本的に異るけれども、私にとつて考へ方の一つの指針となつてゐる。