闇黒日記?

にゃもち大いに語る

現行憲法無效論を攻撃する爺氏の政治的意圖

私は、福田恆存が述べた現行憲法無效論を支持してゐるのであり、完全にその立場に從つてゐる。もし逸脱したところがあるのなら、それは私が行き過ぎた事・間違つた事を言つてゐるか、他の論者の意見を取込んでゐるか、のどちらかだ。私は正しい事を言はうと思ふから、正しい事を言つてゐると思はれる人の主張に從ふ。


それはともかく、「無効」である理由といふのが、帝国憲法が一般的な改正を許しても「天皇主権」を変更する事を許してゐないから、らしい。しかし、それを許さない、とは帝国憲法のどこにも書いてないやうだから、それは野嵜さんの「理解」もしくは希望的観測にすぎない。そのいわゆる一つの理解に基いて、帝国憲法が規定する改正方法に基いて成立した新憲法を無効だと主張される。これは日頃野嵜さんが避難してやまない「こじつけ」の典型例ではないか。
大日本帝國憲法第一章第三條に斯うある。
天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
呉智英氏が、これは「侵してはならない」ではなく「侵す事が出來ない」の意であると指摘してゐる。「天皇は神聖であり侵す事が出來ない」のだから、その性質を變へる事は出來ないと云ふ事。

そもそも、例えば或る國の憲法が「改正を許さない」との明文規定を持っていれば、その國民は未来永劫、その憲法を改正できないのか?そんな事はあり得ない。國民の意に沿わない、もしくは新体制・新権力の気に染まない憲法など、改正禁止の規定が有らうが無からうが、弊履のやうに捨てられてしかるべきであって、旧憲法にお墨付きをもらふ必要が有る、無ければ疚しさを感じるべきだ等と言ふなどは単なる論理の遊びか言葉の綾である。野嵜さんも予てから主張されてゐるやうに、論じるべきは「内容」であって、その「出自」ではないはず。
もちろん、その通りだが、その爲には國民が自發的意志で變へる事が必要であり、憲法の規定を逸脱して憲法を改めるならば革命が必要となる。
が、日本で革命が勃發した事實は存在しないし、憲法の「改正」が行はれたのは、國民の意志が存在し得ない占領下であつた。
現行憲法が、前文の記述に反して、事實として「國民不在」の状況下で「定められた」事は、問題であり、散々指摘されてゐる。

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しかし、條文の吟味は、意味がない。なぜなら、爺氏は、價値觀の時點で、野嵜に反感を抱き、野嵜の言つてゐる事の影響力を殺がねばならないと心に決めて、野嵜に絡んで來てゐるからである。

私等戦後教育(しかも早期の)を受けた者からすると、これはとんでもない暴論であるし、そもそもどこから出てきた考へ方なのか理解に苦しむ。(まあ多分、福田氏の著書から引つ張つてきたのであらう。)
なんだか、この新憲法無効論にも、歴史的假名遣ひ擁護の際の危うい「論理」と同様の欠陥が有るやうに思ふ。言つてしまへば筋違ひに過ぎない。そんなものに「ひつかかる」人は少数派であつて、大方は無視するだらう。で、それは御同慶の至りである。
「とんでもない暴論である」「大方は無視するだらう。で、それは御同慶の至りである。」と云ふ所に、爺氏の本心が表はれてゐる。爺氏は、暴論であり、危險思想である野嵜の主張を、世間が受容れないやうに、政治的な意圖で以つて、攻撃してゐる訣である。だとしたら、爺氏の尤もらしい論理は、全て爺氏の感情的な動機を正當化し、カムフラージュする爲に、身につけられた假面である。
Kirokuroと同じで、政治的意圖が最初にあり、それを露骨に表すと不利だから、客觀的な側面から敵の弱點を衝き、敵を潰さうと考へた訣だ。
政治的な人間は、これだから何うしやうもない。