闇黒日記?

にゃもち大いに語る

勝ち負けに拘る爺

私は、自分の言つてゐる事が正しいから勝利宣言を出したのだし、「爺」氏その他の人が書込めないやうにしたのは、負け=自分の間違ひを認めないで執拗に書込みを續けた「爺」氏の態度の惡さが理由である。ところが、爺氏は、「勝ち負け」に論點をずらして、話を進めてゐる。


成程、勝ち負けを意識して、というか勝つ事を目指していたのか(それにしてはお粗末な……。)で、佐藤氏に支持してもらつただけで、いきなり勝利宣言では、何だか、開票はおろか投票する前の「勝利宣言」みたいだ。でも、さすがに内心は疚しいと見える。だからこその議論の打ち切りであり、それ以降の全ての記事のコメント禁止、なんだらう。

幾つか前の記事でも書いたが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/理論言語学
傳統的な假名遣研究も、「廣義の理論言語學」に入る。この事は火を見るよりも明かな事だ「広義には仮説検証法による言語の研究はすべて理論言語学ということができ、文献学的伝統や哲学的伝統などの中にしばしばこれに相当する研究を見出すことができるが」。橋本進吉の研究が實證的であつた事、文獻に基くものであつた事は、大野晉が證言するところである。最近出た、川村二郎による評傳『孤高 国語学者大野晋の生涯』を、爺氏は參照されると良いだらう。

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比較のやり方といふか対象がちぐはぐ。教科書や役所の文書が従うべき規範となったといふ意味では、両者はいずれも「政治的」に定められたと云ふべきである。従って「政治的に定められたものに過ぎないから非科学的」という議論(その当否は措くとして)が現代假名遣いに適用されるなら、同様に歴史的假名遣ひにも適用されるべきである。(歴史的假名遣ひの方は、公開された「審議会」での議論が有ったとも思へない。云はば政治的かつ非民主主義的に定められたのである。)
しかし、そもそも歴史的假名遣ひは「定め」られたのか。当時も今も「明文化された規範」にはなってゐない思ふ。まさか、「決められてないから科学的」である訣ではなからう。むしろ、明確な議論の対象たり得ない、という観点からは「非科学的」と云ふべきである。
これは大變尤もらしいいんちきな議論である。なぜなら、「政治的に定められた」點で「同じである」と言つてゐるのが、いんちきだからである。
「政治的に新しく定めた」か「政治的に既存のものを採用した」かは、大きな違ひである。その違ひを爺氏は見ようとしない。

しかも、爺氏は、續けて、こんな事を言つてゐる。
科学的・実証的かどうかを検証・比較するのなら、(規範の定まり方ではなく)それぞれの規範が基いている、原則・知識体系・仮説を比較するべきである。
私は、ちやんとさう云ふ比較をして言つてゐる。ところが、それを「してゐない」と極附けて、爺氏は「野嵜はをかしい」と宣傳する。野嵜が誤つた立場になければ困るから、爺氏は野嵜の主張を歪曲してゐるのである。

しかし、二つの「かなづかひ」の「原則」の把握が、またをかしい。
「語に沿いて」が、歴史的假名遣ひの「原則」であり、それはつまるところ、假名が成立した頃の音韻に沿つた仮名遣いを正則としたとも云へる。
「表音主義」が現代假名遣いの原則であるが、これは云ふまでもなく「現代語」の発音に基く、と云ふ事である。
こう捉へるならば、いづれも「或る時代の音韻(発音)に基く」事を原則にしてゐるとも言へる。この観点からすると、歴史的假名遣ひが基くと云ふ実証的学問とは、過去の音韻を推定するという事に他ならない。これは優れて実証的な学問の課題であり得るだらう。そして、現代仮名遣いにはその必要が無いだけの事。
「現代仮名遣」の「原則」は、「表音主義」と「表語主義」の妥協・折衷である。一つの原則なるものは存在しない。それが問題だと私は指摘してゐるのだが、爺氏にはわからない。

現代假名遣いは原則に忠実でない、との批判があり、野嵜氏はそれをも「非科学的」と称してゐるやうだが、それを云ふなら、歴史的假名遣ひも苦しいところはいくらでもあるし、そもそも未だに定まっていないものも多い。
「原則に忠実でない」のではない。「現代仮名遣」にはそもそも「一貫した原則が存在しない」のだ。「現代仮名遣」において、「政治」は或語の表記を「こう書け」と一方的に命じてゐるだけである。「政治的に決める」とはさう云ふ事だ。
一方の歴史的假名遣は、或語については正しい書き方が判つてゐるからさう書く、或語についてはそれが判つてゐないから當座は大體正しからうと思はれる書き方で書く、と云ふ「決り」であり、さう云ふ「決り」が既に「ある」からそれに從つて書くやうに、と云ふのが「政治」の命ずるところである。政治は書き方を決めてゐない。

しかも、「正しい書き方が判らない=書き方が定まらない」のは、歴史的假名遣の缺點であると、高崎一郎氏と同じ事を、爺氏も言つてゐる。けれども、正しい書き方が判らないものを「判らない」と正直に言ふのは、正しい事だ。歴史的假名遣は、さう云ふ點で、「現代仮名遣」よりも正直だと言ふ事が出來る。
逆に、さうした部分をばつさりやつてしまつた「現代仮名遣」は、結果として、本來の日本語のありやうからは決定的に離れてしまつた。「兔に角書ければいい」式の刹那的な「政治的決斷」である。

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以下は異る問題である。

「假名遣ひは科学的であるべき」がそもそも野嵜氏の思ひ込みに過ぎない。假名遣ひのやうな「規範」が「科学的」でなければならない理由はない。むしろ、「整合性を持つ(無矛盾である)」「学び易い」「適応性が有る」等の方が重要であらう。
斯うした問題・「規範の基準の問題」は、人文科學的な問題である。だから、自然科學の問題のやうに、假説を示して、それに反證を擧げられるか否かで、檢討を進める事は出來ない。
だが、だからと言つて、爺氏は安心して、野嵜を罵る事は、許されない。爺氏の價値觀を、私はをかしいと思ふ。
★整合性の爲に・教育の爲に、現實の言語を歪曲するとしたら、その方が問題であらう。
なぜ爺氏は、歪曲を「是」とするのだらう。そして、爺氏が判斷基準とする事柄は、全て「現代仮名遣」を支持する立場からも言はれ得る事なのである。それならなぜ爺氏は、「現代仮名遣」を支持せず、歴史的假名遣を使はうとしてゐるのだらう。

その上、野嵜氏がやっと挙げた仮説の例は、とても「科学的」であると言ヘない。まず「動詞の活用」の方はあまりに一般的かつ漠然としすぎていて、どういふ意味でも「反証可能性」が無い(つまりは反論さえできない)。「『さふらふ』か『さうらふ』か」の方は(検証方法に疑問は残るが)反証可能ではあるだらうが、それは「素朴反証可能性」と呼ばれるものである。つまり、「{緑|黄色|青|赤}の白鳥は居ない」等といふ仮説をいくら積み上げても、「科学的仮説」とは言へない、といふ事。
これは、爺氏の勝手な判斷に過ぎない。「あまりに一般的」云々と爺氏は文句を言つてゐるが、私にしても爺氏から性急に「適切な例」を擧げろと言はれて、困惑した事を言はねばならない。なぜ專門家でもない私が、適切な例を簡單に擧げられなければならないのだらう。私は、知識として、言語學が科學志向である事を知つてゐるのみである。
「さぶらう」か「さふらう」かにしても、簡單にウェブ上のリソースを指示できるから言つただけで、それが適切で決定的な例であるとも思つてゐない。
だが、橋本進吉にしても、大野晉にしても、研究方法は嚴密であつたのだし、また、彼等が自分逹は、自然科學とは違ふにしても、人文科學として、十分に科學的な研究を行つてゐると自負してゐた事は、間違ひない。
爺氏は、橋本氏にしても大野氏にしても、知らない人だから、信用しない。けれども私は信用してゐる。だから國語學が一種の科學である事を――と言ふより、言語學・國語學の研究者が、皆、科學的な物の見方、考へ方を重視してゐる事を、私は確信してゐるし、彼等を信頼してゐる。ところが爺氏は信用も信頼もしない。赤の他人だからである。

もちろん、信用とか信頼とか、さう云ふ事を「論證」として「言ふ」のは「をかしい」と爺氏は非難するだらう。けれども、私は專門家でないから、説明できないよと言つてゐるだけだ。
★だから私は「自分で直接、國語學者の研究に當りなさい」と爺氏に忠告した。
爺氏は、しかし、未だに、野嵜の發言を分析する事に終止し、國語學者の研究に觸れようとしない。觸れたら最後、爺氏は自分の思ひ込みが誤つてゐた事實に氣附くだらうからだ。爺氏は、恐れて、近附かない。

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Kirokuroは、爺氏を私が「納得させられない」事を嘲るだらう。けれども、それは何の意味もない。「事實が何うであるか」と「事實を納得させられる技術を、或論者が持つてゐるか」とは、全然別の話だ。
と言ふか、爺氏もKirokuro氏も、「事實を納得させられる技術を、或論者が持つてゐるか」にのみ興味を持つ人種である。私は「事實が何うであるか」にのみ興味がある。
だからこそ、爺氏が執拗に野嵜、野嵜、野嵜と言ふのに堪へられなかつた。私は詰らない事を言ふ人に、堪へられないのである。爺氏は、私の興味の無い事を一生懸命言ふのだし、Kirokuroもさうである。
私は、自分が興味を持てない問題に興味を持つ人間が、嫌ひである。「論者の資格」なんて下らない事を一生懸命論じたがる、野次馬根性丸出しの、低級な趣味を持つた、下賤な輩は。なぜさう云ふ低級な事に興味を持てるのか、私には理解出來ない。

なんで「何が正しいのか」を自分の目で見ようとしないのだらう。「人が何う見てゐるか」を論じて、何をしたいのだらう。「自分が正しい物を見てゐる」と言つて、爺氏もKirokuroも、自慢したいだけなのでないか。しかし、彼等は、他人の目を通して物を見るだけで、自分では何も見てゐないのでないか。だとしたら、彼等が「野嵜は正しく見てゐない」と非難するのは、底の淺い批判だ。
Kirokuroにしても爺氏にしても――先づ自分が、正しく見て、報告したら良からう。野嵜の物の見方を分析して、嘲つたところで、自分が「見た」事にはならない。