闇黒日記?

にゃもち大いに語る

レトリックとは成程便利なものだなあ

Kirokuroが、問題を起した擧句、責任逃れをする爲に「静観する」と言つた事は既に述べた。人のレトリックの揚げ足ばかりを取つてゐたKirokuroが、いざとなると自分はレトリックで逃げる、と云ふ大問題を起してゐる。

人は、言葉を飾るものだと言はれる。けれども、どちらかと言ふと、言葉を使つて理窟をねぢ曲げるものだ。人は率直に語るべきであり、「面白おかしく」語るべきではないのだらう――少くとも、何時でも何處でもおちやらけるのは、止すべきであらう。

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・「東京とはおそろしい地域で」と書き始めたからには東京を非難してゐるものと思ふのが普通。
・「電車に乘つてゐると、女性のかたが、男である私に對して、平氣で尻をすりよせてくる」と書かれてゐるからには、既に動いてゐる電車の中で、乘つてゐる「私」に「女性」が「尻をすりよせる」事を書いてゐると思ふのが普通。
・「むしろ」と書いてあるのだから、それまでの話題と打つて變つて、、今度は「乘つて來る」事それ自體に話題を移したのだな、と思ふのが普通。即ち、それ以前は「乘つて來る」事ではなく「乘つて來た後」の話をしてゐたのだなと思ふのが普通。

ところが七鍵氏曰、
私は「聲もかけずに、尻を摺り寄せて電車に乘らうとする習慣は何とかしなければならない。」と言つてゐるのです。それ以上でもそれ以下でもないのです
云々。

七鍵氏には、話の流れから讀者がどのやうに文章を讀取るものかを、豫想出來なかつたらしい。と言ふより、そもそも七鍵氏は、「話には流れがある」と云ふ事が解らないで文章を書いてゐるらしい。

Sucky氏の感想は、極普通に文章を讀んだ人間が極當り前に思つた事を述べただけのものだ。其れは正しい讀み方である。七鍵氏は、自分の思つた通りに讀んで呉れないと不平を述べる――が、その爲に、自分の書き方が惡かつたのだなと謙虚に反省するのでなく、相手の讀み方が間違つてゐるのだと居直る。

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http://www.7key.jp/diary/list/2009_09b_15_01
正しい、正しい、正しいなんて、口でいふだけなら誰でもできることであつて。正しかつたか否かは、行つた結果に對して自身以外の誰かが下す判斷である。結果も殘すことができない人間が、「正しい」ことについて言及してゐる姿は滑稽以外の何ものでもない。なるほど、哲學とは便利な學問だ。

http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_23_04
何も私は、自分の意見が正しいと考へてこちらに記事を書いてゐるのではありません。過去に何囘か明言してゐることですが、Suckyさんは讀まれてゐないでせうから改めていひますと、私は正しいことを言はうとしてゐるのではありません、私の意見だから言つてゐるのです。當然、自分では正しいと思つてゐることなのですが、それを他人が讀んで正しいと感じてくれやうなどとは思つてゐません。いや、そのやうな人がゐたら良いなとは思ふのですが、さう思はない人にまでさう感じさせようとは全く考へてゐません。

私は、この手の「言説」をウェブで何度も何度も見た。これはをかしな「言説」だと、私は昔から思つてゐる。ところが七鍵氏は、自分が大變全うな事を言つてゐる積りでゐる。

七鍵氏の發言は、以下のやうな内容に言換へる事が出來る。
「私の言つてゐる事は正義ではありません。なぜなら、他の人が自分で判斷する事が出來るからです」
「もちろん自分では自分の言つてゐる事は正しい事だと思つてゐますが、他人に押附ける意圖が無い以上、事實として正しいものである訣ではありません」

珍妙な發言だ。他人が何う思はうが、自分が「正しい」と思つてゐる事は正義である。そして、正義について述べてゐるのなら、私以外の誰かが何らかの判斷を下さうが下すまいが、それは「正義について述べてゐる」のである。
★と言ふか。「當然、自分では正しいと思つてゐること」が「自分の意見」であるのに、その「自分の意見が正しいと考へてこちらに記事を書いてゐるのではありません」と言ふのは遁辭でないか。「正しいと思つてゐる自分の意見を正しいと考へて記事を書いてゐるのではない」。訣が解らない。
ところが、七鍵氏は、とても巧い事を言つて言逃れをした積りになつてゐる。どうして七鍵氏は自分の發言がをかしいと解らないのだらうか。
多分「押附けがましさ」が「ない」ならば全て許される、と云ふ勘違ひを、七鍵氏はしてゐるのだらう。前の「無斷リンク」の話の時も、七鍵氏は、そんな曖昧な理由を持出して「理論化」してゐた。「哲學」とは、成程便利なものだ。


エリオットも松原正氏も、批評における「正しさ」については、まことに愼重であつた。そこでは「押附けがましさ」を言ふにしても、何が「押附けがましい」と云ふ事であるのか、の説明があつた。即ち、「個人的經驗にもとづくもので充分に一般化されてゐ」ない事、「必然性」の「解明」が不十分である事、にもかかはらずそれが「正しい」とされてゐる事――それが「押附けがましい」と云ふ事だ、と言ふのだ。
七鍵氏の場合、さうした説明は拔きで、ただ「押附けがましい雰圍氣」があればそれは「押附け」だと、簡單に言つてしまふ。それこそ單なる押附けであり、獨善であるのだが、七鍵氏は日本人だから(噫)雰圍氣で「わかつてしまふ」のだ。あとはレトリックの出番である。「正しい」「正義」を自分の意見から剥離して見せるテクニック、それが七鍵氏にとつては大事なのだ。「私は正しいと思つてゐる」けれども「他のみなさんが判斷する事」だから「正しい事を語つてゐるのではない」――誰が何う見ても、七鍵さん、あなたは正しさについて語つてゐる。

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それにしても、七鍵氏の文章。特に今囘の。
http://www.7key.jp/diary/list/2009_09c_23_04
しかし、氣にする必要はありませんよ。
ついでながら。お喋りついでに加えます。
何と押附けがましい口吻だらうと、私は唖然としたのだが、七鍵さんは、讀返してみて、何か思ふ事は無いのだらうか。押附けがましい――と言ふか、慇懃無禮の印象すらある。どこぞの惡性氏にしてもさうだが……斯うした慇懃無禮さも、レトリックを便利に利用すると云ふ事に外ならない。それで他人を欺し、自分を欺してゐるのは、傍から見てゐて些か見苦しい事に思はれる。

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さて、この話題に就いては、今後は「静観」でもしてみようか。或は、七鍵さん、私はただ、私にしてみれば正しいと思はれる事を書いたに過ぎませんが、それが本當に正しいか何うかはみなさん(誰)が判斷する事ですし、奈々か蟻酸が野嵜の批判を「誤つてゐる――正しくない――と感じるのであれば、それで良いではありませんか。」
否、「闇黒日記」での指摘をあなたは今まで、スルーして來ました。今囘もスルーすれば良いでせう。しかし、Suckyさんがトラックバックを打込んで來て、あなたは反應しました。斯うした批判があり得る事は、トラックバックを受けるやうなシステムを使つてゐる以上、判り切つてゐた事と思ひます。それでもあなたはSuckyさんに「返答を書いた」。いろいろ理由を言つてゐますが、結果としてみればあなたは「返答を書いた」。それはあなたの意志であり、と云ふ事は、あなたはあなたの「正しい意圖」を傳へたいと思つた。それはしかし、あなたの嫌ふ「正しさの押附け」でせう。いや、自分の言つてゐる事には一つの絶對の「正しさ」が「ある」のだ、さう七鍵さんは、言ふかも知れません。が、それならそれで、なぜあなたは執拗に「正しさ」を言ふのですか。
結果も殘すことができない人間が、「正しい」ことについて言及してゐる姿は滑稽以外の何ものでもない。
あなたの殘した「結果」とやらが、何處かにあると言ふのですか。

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七鍵氏の發言は、獨善的であり、しかもその獨善から私の態度が露骨に皮肉られてゐたのだから、こちらとしても「會話にのぞまうと」してみた。多分七鍵氏には無視される事だらう。或は激しい罵倒の文句が――いやいや、七鍵氏の事だから、相變らず高みにふんぞり返つて、人を見下したやうな目で見ながら、慇懃かつ無禮に、「會話にのぞ」んで下さるに違ひない。もちろん、その「會話」とやらは、七鍵氏が自分の「正しさ」を押附けつゝ、相手の言葉からは何一つ讀取らうとしない、一方的なものなのだ。

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追記
http://www.7key.jp/diary/list/2006_01c_23_01
批判者達をネットヲタクと決め打ちの上遮断言語を発するのは容易い。自分とは縁が無い世界だからこそ理解者が少なく、自分は不当に袋叩きに遇ったのだと思い込めるからだ。しかし、本当にそうなのか自問すべきである。貴方がネットヲタクと決め打ちしている多くの相手は、同じ民主主義国家の仲間なのだから。
さて、「同じ民主主義国家の仲間」が「正しさ」を言つてゐても、七鍵氏は「実績がなければ滑稽」だと馬鹿にし、その一方で自分は再び「正しい」事を言つてゐる。この二重三重によぢれた七鍵氏の言葉と態度――七鍵氏は、何處まで解つて物を言つてゐるのだらう。