闇黒日記?

にゃもち大いに語る

明治政府が採用したかなづかひなるもの

歴史的假名遣は、江戸時代の國學者が、歌學の研究を通して見出した、日本語の表記の法則と云ふ事實であつた。
――和歌の研究を通して見出したものであるから、それは一見、文學的な存在であるかのやうに思はれるかも知れない。しかし、和歌も日本語の文藝であり、和歌の日本語も日本語に違ひはない。そこで、實證的な研究の成果として、國語の姿が明かにされた事の重大な意義は、例へば中田祝夫氏が『あゆひ抄新注』の解説で述べてゐる。

富士谷成章は、日本史上初の本格的な文法學説を構築した國學者だ。成章は、日本語の語を、名(名詞)、裝(動詞・形容詞・形容動詞)、插頭(代名詞・副詞・接続詞・感動詞・接頭語)、脚結(助詞・助動詞・接尾語)に分類し、それぞれについて説明した概説書「抄」と、例證としての證歌を集めた「本抄」とを構想した。
殘念ながら、完成し、殘つたのは『あゆひ抄』と『かざし抄』だけで、殘りは未完のまゝとなつたか、或は散逸した。が、殘された著作が、その後の日本語文法の研究に齎した影響は大きい。
『よそひ本抄』は、未完成の稿本が傳はる。中田氏は斯う述べてゐる。
成章自筆稿本。現在、そのうちのカ行・ヤ行・ワ行の三部が発見されている。竹岡正夫蔵。『あゆひ抄』の成立と共に進められていた『よそひ抄』のための証歌集で、装(用言)に属する語が頭音によってカ行、またはヤ行、ワ行というふうに分類せられ、その用例が古今集・後選集から集められている。空白の部分が多い事も考え合わせてなお未完成の零本であると思われる。なお、他の行の発見が待たれる。この書と『稿本あゆひ抄』とから、成章の実証的な科学的研究方法や、刊本の『あゆひ抄』成立の背後にある成章の研究の進め方などが如実にうかがわれる。成立年次は未詳であるが、晩年のものと推定される。

契沖にしても、その他の國語學者にしても、國語研究を、大變科學的に進めたのであつて、その點を疑ふ事は出來ない(但し、成章の子、御杖の學統は、成章のやうな科學的・實證的な嚴密な態度を缺く點を中田氏は指摘し、成章の研究が他の國學者の學統に引繼がれてゐる事を述べてゐる)。

歴史的假名遣が、斯うした國學の研究の成果として成立した事は、今後、或は別に、述べる事が出來ると思ふ。

明治政府は、既に存在した國學の研究成果を、そのまゝ採用したのであり、それは詰り、明治政府が自ら創作した無根據の規範なるものを國民に押附けたのではない、と云ふ事を意味する。科學的な研究の結果、判明してゐた國語の法則を、明治政府は、教育の爲に、採用したのであつた。

この「教育の爲」と云ふのが、多くの批判者に利用される概念である。なぜなら、教育とは一種の洗腦だからだ。即ち、明治政府は、歴史的假名遣でもつて國民を洗腦した、と、さう明治政府の批判者は主張するのだ。
だが、この批判は意味をなさない。なぜなら、教育は――繰返すが――洗腦だからだ。洗腦しなければ、子供は何も學ばない。だからこそ、良い教育を施す――良い事を子供に刷込む必要がある。
明治政府は、子供に教へ込む國語の規範として、科學的な研究成果を採用したのだ。これが惡いなんて事は、あるわけがない。科學的な研究成果を教へるのが惡い教育だ、なんて、そんな教育理論が、認められるわけがない。明治政府は、國語の規範として、最良のものを採用したのだ。

それに對して、敗戰後の国語改革で、改革の實施者は、科學的な成果を侮蔑し、便宜主義的・功利的な立場から「新しいかなづかい」を創作し、教育によつて國民に押附けた。科學的でない・功利的な・便宜的なものを押附けたのだから、それが惡い事であるのは、疑ひやうがない。

西部邁氏や西尾幹二氏が、歴史的假名遣を排斥し、「現代仮名遣」を賞揚してゐるのは、理解出來ない――と言ふより、大變な危險を感じる。西部氏は、大衆批判を行ひ、民主主義への疑念を表明してゐる。西尾氏は、言ふまでもなく反動思想家であり、民主主義を理論的に認めない。
これらの人々が、愚民統治を前提とした国語改革を支持し、或は權力による獨善的な押附けとしての国語改革を支持してゐるのは、彼等の思想の危險性を示すものに他ならない。民主主義批判が、民主主義を超克したよりよい社會の實現に繋がると云ふのなら歡迎だが、彼等の立場は、一部エリートの權力による愚民の統治を容認・是認するものだし、それを積極的に主張してゐるやうにしか見えない。

ウェブでもオフラインでも、歴史的假名遣への攻撃が強まつてゐるが、さうした攻撃を仕掛けてゐる人物に、民主主義への信頼を持たない、危險な思想を抱いてゐるらしき人物が多い事は、指摘しておいて良い。彼等は、國民を愚民と看做し、彼等を權力によつて支配し、教導する事が、良い政治であると信じ――その支配者・教導者の側に自らを置いてゐる。これは大變な危險思想だ。
國語の統制と云ふだけの話ではない。その先に、彼等の政治觀、そして人間觀が垣間見えるのだ。事實、彼等が民主主義の前提である言論の自由を認めず、強烈な人格攻撃を繰返してゐるのを見れば、彼等の望む社會と云ふものが、想像出來ようものだ。
私は、彼等の望む、彼等「一部エリート」が支配者として民衆を指導する社會を、望まない。それは恐怖政治以外のものではない。