闇黒日記?

にゃもち大いに語る

リバタリアニズムについて

政治主義の勘違ひに陷る人は多い。經濟主義の勘違ひに陷る人も多い。しかし、經濟主義は即政治主義だから、どちらも頭の惡い勘違ひである。
經濟の事を知つてゐる人は物知りの筈で、イスラムの事も詳しい筈だが、イスラムの人々が經濟よりも正義を優先する事實を無視する。或は「正義を優先するイスラムは迷惑だ」とか云ふ「べき論」を言つて、觀察から平氣で逸脱する。井筒俊彦が指摘する通り、イスラムでは神樣が一番上にゐて、人間の生活を支配してゐる。
人間の活動を考へるならば、人間の物理的傾向だけではなく精神的傾向をも客觀的に見なければならない。ところが、多くの政治思想と經濟の思想は、人間の精神の存在を閑却するか、自分に都合良く歪曲するだけである。それらはみな、客觀的な科學ではなく、「アンチキリスト」の價値觀或は「代用宗教」である。唯物主義は宗教を否定する事によつて宗教に成り代はらうとしたもので、結局一種の「宗教」なのである。

リバタリアニズムはいんちきである。人間の精神を輕視し、單純に「人間」の發想を一括りにしてゐるからだ。もちろん、一々の人間の活動を客觀的に見る事も、リバタリアンは屡々主張する。しかし、若し本當に個別の事例を客觀的に見られるのならば、リバタリアニズムなる<立場>に據る必要はない。リバタリアンリバタリアニズムなる立場に依據してゐる。
リバタリアニズムは「イズム」であり、即ち「代用宗教」である。可なり原理主義的な性質が強い。

リバタリアンとして知られるやうになつた木村貴氏は、呉智英のファンとして活動を始め、松原正講演會を主催するなど、政治主義とは一線を劃す立場にあつた。ところが今の木村氏は、リバタリアニズムにはまつてしまつて、經濟以外の觀點がすつぽり拔け落ちてしまつてゐる。
經濟にしろ政治にしろ、それだけを考へてゐたら事實を見誤る。政治や經濟「だけ」で人間は動いてゐると考へてはならない。
木村貴氏、「道徳との絡みで經濟を考へる」と言つてゐた事がある。もともと經濟紙の記者だから經濟の事は考へる必要があつたわけだが、松原先生とのからみで道徳と經濟の關係を考察する事が木村氏の「急務」となつたらしい。そこで何か尤もらしい事を言つてゐるリバタリアニズムに「救ひ」を求めたやうなのだが、何時の間にか肝心の道徳を忘れてしまつたらしい。
現在の木村氏は、リバタリアニズムのスローガンを連呼するだけの原理主義者に成下がつてしまつてゐる。

木村さんはいい人なのだけれども、御人好し過ぎて簡單に「他人」を信じてしまふ惡癖がある。だからアレクセイ=田中幸一なんて見るからに怪しげな人物にすら欺された。アレクセイなんかと附合ふな、と云ふ忠告を木村氏は聞入れず、おかげでこちらは未だに迷惑を蒙つてゐる。今度、リバタリアニズムもほどほどにした方がいい、と忠告したら、最う話しかけるな、と言はれた。2囘裏切られたのだから木村氏とは絶縁である。政治主義を排してゐた木村氏が政治主義に轉向したのだから、Kirokuroは大喜びである。
うちの讀者の人には好い人=御人好しの人が多いのだけれども、さう云ふ人が屡カルト的な思想・宗教にはまつてしまふ。福田恆存も、私の讀者は私よりもずつと右に行つてしまふ、と嘆いたさうだ。

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