闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「正義厨スパマー」と云ふ病理

今年の10月1日頃、以下のやうな文章がウェブの掲示板やブログのコメント欄に大量にばら撒かれた。最初の文章でぐぐると、なんと254件にも及ぶ同一内容の投稿がヒットする。

国家の品格」という駄本が昨年大人気で売れに売れ、著者の藤原正彦お茶の水女子大学教授理学博士 藤原正彦センセーの手元には億に近い金が入ったそうです。

 ところで、この藤原センセーが加入している「国語問題協議会」という団体があります。この団体は現代仮名遣いを廃止して、歴史的仮名遣いいわゆる旧仮名遣いを復活しようと運動している団体です。私は現代仮名遣い支持ですが、そういう旧仮名遣い復活運動をする団体の存在を否定するものではありません。

 団体には普通の会員と役員がいるのが普通です。役員は、その団体の運動に普通会員よりも抜きんでた貢献をした人が任命されるのが当たり前です。もちろん、団体の目的に反する行為をしたものは役員にはなれないのが当たり前で、厳しい団体では会員も除名されるでしょう。

 ところで、国家の品格という駄本でぼろもうけした藤原正彦センセーは国語問題協議会の役員をしておられます。ということは常識的には藤原大センセーは会の目的遂行に普通会員に抜きんでた働きをし、優れた功績を挙げられたということになります。
 しかし、藤原センセーの駄本「国家の品格」をお読みになった方々はご承知と思いますが、その駄本の仮名遣いはどうだったでしょうか。そうです、現代仮名遣いです。これっておかしくないですか。

 藤原センセーは、国語問題協議会という現代仮名遣い排斥運動を目的とする団体に加入しており、しかもその会に対する功績が抜群であるということで役員にまで選任されているのです。ということはセンセーは普段から現代仮名遣いを毛嫌いして、旧仮名遣いをもっぱらお使いになっていらっしゃると思うのが普通の人でしょう。ましてや、国家の品格などという問題をを大上段に振りかざして、国民にお教えを垂れようという著者であれば、御自らの品格も衆にぬきんでた高潔なものである、と普通の人は考えるじゃあありませんか。

 ところが違ったんですなあ、これが。藤原センセーの信念(あればの話、ここまでの私の文章で、藤原正彦センセーにはそんなものありゃあしないことはもうお分かりでしょうが)である現代仮名遣い排斥などどこへやら、信念どおりなら当然旧仮名遣いで書くべきところを、何よりも金儲け優先だとばかり、国語問題協議会の目的も何もかも振り捨てて、売り上げ優先のために、センセー自身の品格も知っちゃあいないとばかり、全文現代仮名遣いで「国家の品格」という駄本を書き上げ、それがめでたく売れに売れて億という単位のお金儲けができましたとさ。めでたし、めでたし

 ついでに、有名な破戒尼で、小説家を兼ねている 瀬戸内寂聴 も同じ「国語問題協議会」の役員です。したがって、の瀬戸内破戒尼も旧仮名遣いを率先して使用せねばならない立場にあるはずですが、皆さんご承知のとおり、この阿魔も処女作以来すべての著作を現代仮名遣いで書いております。

 寂庵という現代駆け込み寺なるものを建てて、善男善女の悩みを聞くなどとぬかして、多額のお布施という名の相談料を取り立てては彼らを誑かすという商売をしているようですが、藤原センセーと同様、信念などというものは糞の役にも立たない、金儲けが命という屑です。もちろん人間の品格などというものはありゃあしません。

 コロムビアファミリークラブ発売の瀬戸内寂聴DVDの宣伝文句

 私はさして遠くないときに死ぬことは確実である。今、私の息のはっきりした段階で、嘘のない自分を、嘘のつけないテレビに収めておくのも、いいかと思った。  瀬戸内寂聴

 この瀬戸内という破戒尼はよくもまあぬけぬけと「嘘のない自分」と言えますなあ。仮名遣いで嘘をついていることもそうですが、若いころ、男に狂って、まだ乳児の女の子を捨てて駆け落ちしたんですよこのアマは。そういうことはすっかり口をつぐんで、今は善男善女相手に尊いお教えを垂れていらっしゃる。盗人猛々しいとはこの阿魔のことだ。

これは有名な「福田恆存をやっつける会会長」を名乘る人物「新井」氏がやつたスパム的掲示板荒しだ。「会長」こと新井氏は、福田恆存氏を扱ふからうちのサイトを見てゐるし、以前はしよつちゆううちの掲示板に書込んでゐたが、この闇黒日記2.0にも現はれて馴れ馴れしい口調で言ひ寄つて來た。
新井氏は、以前は當方を利用して、福田氏に興味を持つた人に嫌な印象を與へようとしたのだが、最近はここで何を言つても俺に反論されるので、餘所で活動して間接的にうちに打撃を與へようと頑張つてゐるらしい。

ぐぐれば明かな事だが、新井は最近、ザ掲示板なる匿名掲示板をスパム行爲のターゲットに選んでゐる。254件ヒットするうちの多くがその匿名掲示板のスレッドだ。新井は「破戒尼」「品格」等と名乘つて、別人を裝つて書込んでゐる。
その他には、如何にも俺に關係のありさうなブログ等に、狙つて投稿を繰返してゐる(らしい)。嫌らしいやり方だと思つた。

しかしこの新井氏、何時も大體同じやうな文體とロジックで他人を罵倒するのだが、某所で見かけた時にも一發で「またこいつか」と判つてしまつた。この大量にコピペされた文章にも特徴的な文體が看て取れる。それは例の「アレクセイの花園」のアレクセイも良く使ふ文體で、慇懃無禮な文體だ。此れくらゐ相手を小馬鹿にした書き方も無いのだが、何しろ「一見叮嚀」だから非難されても「何か非難される謂れがありますか?」ととぼければ濟むし、だからこそアレクセイや新井が好んで使ふ事になる。

新井が好んで使ふのが「金儲けのため」と云ふ言ひ方だ。福田氏を侮辱するのにも新井は「金儲けのために」と言つたが、今囘も藤原氏を誹謗するのに動機として「金儲けのため」と言つてゐる。「金儲け」が福田氏や藤原氏の動機であつたか何うかを、我々は知る術はない。これは全ての人間に言へる事だが、その人間の一人である新井は、自分は彼等の動機が「金儲けのため」であると知つてゐると斷言してゐる。勿論、そんな事を斷言する根據を新井にきいても新井は答へないが、ならば新井は根據の無い事を言つてゐるのであり、根據の無い事を言つて他人の人格を貶めてゐるのならばそれは名譽毀損や侮辱の類だ。名譽毀損や侮辱は許されない。當り前の話だが、なぜか新井には理解出來ない。なぜなら、目的として「惡人である福田恆存」「惡人である藤原正彦」「惡人である瀬戸内寂聴」を罵倒する新井の行爲は「アプリオリに正義」であり、それが名譽毀損や侮辱であつても、新井の正義の前には何の意味もなさないのだと、新井は心から信じ込んでゐるのだ。勿論、福田氏や藤原氏、瀬戸内氏が「惡人である」と言ふ爲には、根據を提示しなければならないし、根據が無ければそのやうに判斷する事も出來ないのだが、新井は最う最初に根據拔きの判斷をしてしまつてゐるのである。これは「トンデモ」「電波を受信してゐる」と言はれても仕方がない事だらう。兎角この世には根據の無い事、根據を提示し得ない事を、「アプリオリに正しい」と信じてしまつて、それで平氣で他人を侮辱してゐられる新井のやうな人間がゐるのだが(「いろは」歌のやうな「47字の假名文字だけで作る歌」を作らない人間は本當の正字正かな派ではなく例外ナシに惡人であると主張してゐる正字正かな派の人間すらもゐる。新井氏にはさう云ふ人物も宜しく攻撃していただきたいものだ)、新井には少しは反省していただきたいものである――が、それは無理だ。なぜなら、新井は「反省」と云ふ概念がこの世に「ある」と云ふ事をしらないからである。

今、新井は瀬戸内氏を「若いころ、男に狂って、まだ乳児の女の子を捨てて駆け落ちしたんですよこのアマは。」と言つて罵つてゐる。こんな罵り方があるのかと思ふが、新井は本氣である。
しかし「若いころ」に惡い事をした人間が、反省して僧侶になつたのならば、今僧侶として正しい事を言つてゐても、それは矛盾ではなく、何ら非難される事はない。僧侶が、僧侶になる以前の過去の行ひを理由に「破戒僧」等として處斷される事はあり得ない。
ところが新井は本氣になつて瀬戸内氏を「破戒僧」と言つて罵つてゐるのである。此れは異常である。

そして、異常だからこそ、新井は向きになつて、他人を侮辱する文章をウェブの各地の掲示板やブログのコメント欄に書いて廻る熱意を持つ事が出來る。


別に何を書いてもそれが言論ならば自由であり、守られねばならない。けれども、明かな名譽毀損・侮辱目的の罵倒ならば、それは守られるべき言論ではない。新井のは守られるべき言論ではなく、名譽毀損・侮辱に當る文章であり、風聞の流布であり、また事實上のスパム行爲である。
かうした異常な人物の異常な行爲を、制度として何とかする事は出來ないのだらうか。出來ないのである。我々は制度をとやかく論ずるのが好きだが、それは大變空しい事である。もちろん、その空しさを認識した上で、全てを百も承知ですると云ふのならば、それはそれで態度として「あり得る」のであり、又その時の態度は、無自覺な人の態度とは自づと違つたものとならう。それが大事なのだと俺は言ひたい訣だが、新井の樣な人物には到底理解して貰へないだらうし、今の日本では多かれ少かれ新井のやうなところがある人間しかゐないから、俺が何を言つても理解して貰へないだらう。