闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「スルーは容認」

「正當な批判はきちんと受止めるべきだ」と云ふ意見は良いと思ふ。けれども、「いはれのない誹謗中傷は華麗にスルーすべきだ」と云ふ意見は何うだらう。

スルーは容認だ。
だから容認すべきでない意見はスルーすべきでない。當り前の話だと思ふのだが、世の中「スルーするのは良い事だ」みたいな風潮が釀成されつゝあるやうに思はれる。
と言ふか、一般常識みたいな顔をして「スルーしましょう」みたいに語る人がウェブにはとてつもなく大量にゐる。この種の常識は疑ふのが普通だが――

「いはれのない誹謗中傷」の類を平氣で書く人は、無知だから、自分の言つてゐる事が「いはれのない誹謗中傷」であると理解出來てゐない。だから理解出來てゐる人はきちんと教へるべきなのだが、教へられると嫌がるのが無知な人の常。逆恨みするからそつとしておいた方が安全、と云ふ事で、その手の人をそつとしておく=「スルーする」やうにする、と云ふ話になる訣だが、それが狹いコミュニティの中だけなら問題はない。ところが、今のウェブには狹いコミュニティ等あり得ない。「正字正かなコミュン」とか「CSSコミュン」とか言つてゐるけれども、そんなものは存在しない。少くとも「此所から此所までは○○コミュン」等と境目を立てて、あつちとこつちとの行き來を制限する、なんて事は、少くとも一般のオープンなウェブサイトや掲示板、ブログの類では出來ない。mixi邊でそれなりの制限は出來てゐるけれども、もちろんmixiで「スルーせよ」なんて主張は出て來ない。はつきりアクセスを拒否せよ書込みを拒否せよと云ふ話になる。となると、ウェブで「スルー」と言ふのは、要はアクセス拒否書込み拒否が出來ないから、やむを得ず「それなり」の對策、場當り的な對策として言つてゐるに過ぎない訣だ。

「いはれのない誹謗中傷」に關して、ウェブに於ては、スルーよりも寧ろより多くの人が寄つてたかつて「それはいはれのない誹謗中傷だ」「やめろ」と言つて叩くべきだ。スルーしない事が肝要だ。スルーすれば、「いはれのない誹謗中傷」が「いはれのない」事だと認識すら出來ない人は、屡々自分の意見が受容れられたと勘違ひする。
また、たつた一人の人が批判しても、その手の駄目な人は、その批判こそが誹謗中傷で――と言ふより、「此處では言つても駄目だw」とだけ感じて、「なら餘所でやらう!」と、却つて「活動」する意欲を増してしまふ結果にしかならない。

我々は「常識を疑へ」と散々言はれてきた。ところが「スルーせよ」と云ふ常識だけは滅多に疑はれない。
最近俺は疑つてゐるのだが、「スルーせよ」と言ふ人は、他人にスルーされると都合の良い、一般的な觀點からは惡事と看做される事を、その人自身が「やつてゐる」のではないか。或は、叩かれれば潰れるに決つてゐるが、スルーされる事によつて却つて潰される事なく世間に傳播して行く「よろしくない主張」を持つてゐるのでないか。
ちやんと叩いて潰しておかないと、をかしな主張をする人は頑張つてどんどん世間にをかしな主張を廣めて行く。今のインターネットの仕組は、「小さな聲」でもかき消されず、却つて「大きな意見」だけが叩かれ、相對化されて駄目になつて行くやうに出來てゐる。意見を言ふ人は、こちらで顏を出し、あちらに顏を出して、ひたすら意見をばら撒く事が出來る。何んなに間違つた信念を抱いてゐても、その人自身が「間違ひだ」と悟らない限り、その人は間違つた意見を「正しい意見」として廣めてしまふし、をかしな人に限つて「廣める行爲」を「良い行爲」だと信じて熱心にやつてしまふ。

何度でも言ふが、スルーは容認だ。スルーすべきでない意見はスルーすべきでない。そして、「スルー」を積極的に認め、推奬する人がゐたら、周りの人はその人を疑ふべきだ。その人は他人にスルーされる事によつて自分の間違つた意見をばら撒き廣めようとしてゐるかも知れない。



ただ、「スルーしない」時の問題は、スルーしないで叩く側が、本當にちやんと物事を理解出來てゐるか何うか、だ。間違つてもゐない主張を叩いてしまつては元も子もない。が、さうなると、我々は自分逹の見識と云ふものを問題にしなければならない訣だ。さうなると、今、「スルーせよ」と言つてゐる人々は、敢て自分の見識を問題にしない爲に、保身の爲に言つてゐるのではないか。それは大變無責任な事だ。