闇黒日記?

にゃもち大いに語る

と言ふか――

俺は、理論を一貫させるべき事は主張したけれども、「言行は何時如何なる時にも例外なしに一致させるべきだ」なんて主張してゐないんだよね。「言つてゐる事があつちとこつちで矛盾してゐる」のでは主張として成立たないけれども、理想と現實が矛盾してゐるのは當り前の話。それだけの事を言つてゐるに過ぎない。
言行一致を主張してゐるのは喜六郎一派が勝手に言つてゐるだけの事であつて、喜六郎は自分の信ずる「言行一致」の價値觀をこちらに押附けてゐるに過ぎない(勿論、そんな價値觀等、喜六郎は本氣で信じてゐないから、こちらを困らせる目的で當座採用してゐるだけなのだが)。

あとさ、俺は他人を批判する時は何時でも、あり得べき反論の仕方があるけれどもその反論が成立たないが故にこちらの批判が「現状では正しい」と云ふ事を示してゐるし、批判に對して相手が何うすれば良いかを明確に示してゐる。反證可能性のある主張をしてゐるし、具體的な對案を示してゐると云ふ事だ。ならば俺の批判は正當な批判であつて、非難されるべき「他者攻撃」には當らない。「批判する事がそれ自體として許されざる道徳的惡事である」と云ふ事が言へない以上、喜六郎が如何に偉さうに説教して見せたところで、俺が反省すべき事等何もない。
一方の、喜六郎の攻撃は、これは歴然たる「他者攻撃」だ。根據も提示されなければ有效な反論の仕方も存在しない「絶對的」な「道徳的」非難であり、また非難された側が何をすれば良いのかを示さないで困らせるだけのものであるから、批判としてあり得ない。勿論、喜六郎に、自分のしてゐる事が「他者攻撃」だとの自覺はない。喜六郎は、批判の仕方を知らない無知な人間であるがゆゑに、自分のしてゐる事は「野嵜のしてゐる事と同じ」だと心から信じ切つてしまつてゐるのである。しかし、彼我のしてゐる事は全然違ふ。喜六郎の攻撃は個人攻撃であり嫌がらせであるが、野嵜のしてゐる事は批判であり――と言ふより、他者からの攻撃に對する自衞である事が殆どだ。喜六郎は野嵜が見境なしに他人に因縁をつけまくつてゐるかのやうに言つてゐるが、野嵜が自分から積極的に攻撃を仕掛けた事は殆どない。大體、他人から故なき攻撃を受けてゐる人がゐて、そこで野嵜は辯護を買つて出てゐるだけだ。喜六郎は、さう云ふ事實を無視して、野嵜をまるで××××のやうに言つてゐるが、好い加減根據の無い中傷は止めて貰ひたいものだ。俺は何時だつて、誰か・何かを辯護する爲に物を言つてゐる。


それに、俺が何時までも執拗に一人の人間に粘着して、何年もつきまとつて嫌がらせを續けたなんて事は一度もない。俺が掲示板に長文を書いたり連續で投稿したりする事はあつたけれども、それを何年も續けたなんて事は全然ない。これは全ての閲覽者の人が同意せざるを得ない事實だ。青方の中村や喜六郎、或は「義」がやつてゐるのは、さう云ふ「一人の人間に長い間粘着して攻撃する」行爲であり、さう云ふ惡質な行爲を俺は一度としてした事がない。もし喜六郎らのその種の行爲が惡質でないのであるならば、俺のして來た事がそれより惡質と云ふ事はあり得ない。

俺が喜六郎らに非難されるべき理由は存在しない。大體、俺は喜六郎らに迷惑をかけてゐないし、何の加害行爲もしてゐない。寧ろ、喜六郎らが當方に害を加へてゐると言つて良い。
そもそも、喜六郎は、なぜ俺を非難してゐるのか。喜六郎は、當方にどんなかかはりがあると言ふのか。無關係の人間なら、なぜしやしやり出て、當方に對する粘着ブログを立上げて、長期間に亙つてつきまとつてゐるのか。

喜六郎らこそ反省して、俺に謝罪すべきである。