闇黒日記?

にゃもち大いに語る

俺は馬鹿だから反省しない――反省したい奴は、たんと反省するが良い

おなじみ喜六郎がまた何うでも良い言掛りを附けて來たので反應する。

「何も言はない」「ヤフー死ね」「ブログや掲示板のようなインタラクティブなメディアは雑音が入るから駄目」とか言ってた人が、なんの説明責任も果たさずに、「ヤフー」の「ブログ」サービスを利用して何かを言い始めるのが果たして「知的誠實」を事あるごとに事あげしてきた人間のすることなのかどうかについては、大いに議論の余地があると思う。

半年くらゐ前、「福田恆存をやっつける会会長」を名乘る人物が出現して、福田恆存は、『私の國語教室』を書いてゐるのに、なんと略字略かなで本を出してゐた、許せない、と言つて、福田氏を惡し樣に罵つて囘つてゐた。
あれと同じ言掛りである。どうも、何處かをかしな人には、この種の言掛かりをつけるのが大好きであると云ふ傾向があるやうに思はれる。

福田氏が略字略かなで本を出した事はある。だが、だから何だと言ふのだらうか。何の問題もない。

今の當方にも、何の問題もない。それを、あたかも「ある」かのやうに極附けて、罵倒するのが喜六郎の何時ものやり方である。大體、當方に「問題がある」のが事實であるならば、なぜ喜六郎は、「大いに議論の余地があると思う。」等と書くのだらうか。事實として當方に「問題がある」のならば、喜六郎はこれこれかう云ふ理由で「問題である」と斷定すれば良い。それを喜六郎はやらない。なぜか。理由がないからである。野嵜に問題があると言ふ理由がないから、喜六郎は、何時ものやうに曖昧に逃げるのである。(全く困つた事に、これが正しく「何時ものやうに」なのである。喜六郎は何度も何度も、この種の「理由を説明しない」やり方で根據の無い極附けを行ひ、野嵜を罵倒してゐる。さうした攻撃の仕方を「狡い」と思はない邊、やつぱり何處か「をかしい」と思ふのだが、さう云ふをかしな人がこの世には澤山ゐるから、當人、自分が異常である事を自覺出來ないのだらう)

別に何の問題もない事を、一々「問題である」と極附け、「反省しろ」と迫り、「反省しない」と言つて、その人物が人格的に陋劣であるかのやうに見せかける――それを「戰術」として採用してゐるのが民主党小沢一郎で、その種の「戰術」を俺は好まない。しかし「戰術」として、權力鬪爭で採用されるべきやり方を、喜六郎は――否、喜六郎のみならず、青方の中村(一無名人)や「義」が屡々――「當り前に取るべき手段だ」と思ひ込んで、無意識のうちに用ゐてしまつてゐる。これだから彼等が常に水掛け論となる論戰を仕掛ける訣だが、ところが彼等は、自分の仕掛けた論戰を「義戰」であると心から信じてしまつてゐるから、當方が「極めて瑣末な、何うでも良い事を一々採上げて」云々と彼等を批判すると、「何を言ふか」と、つい反論してしまふ訣だ。しかし、根據も擧げずに「大いに議論の余地があると思う。」と書いてゐるのだから、土臺喜六郎に本氣で相手を批判する積り等ないに決つてゐる。そもそも、喜六郎の書き振りを見れば、當方を本氣で批判する積りはなく、揶揄つて遊んでゐるに過ぎない事は誰の目にもわかる事だ。それをすつとぼけてゐるのは、喜六郎が遊んでゐるからに過ぎない。遊びで人を攻撃するのは、やめて貰ひたい。迷惑だ。

喜六郎は書く。

そもそも「極めて瑣末な、何うでも良い事を一々採上げて」他者攻撃に明け暮れていたのは、野嵜さんや木村さんをはじめとする松原信者ではなかったのか?

「なかったのか?」も無いだらう。例によつて極附けである。何時何處で俺が「「極めて瑣末な、何うでも良い事を一々採上げて」他者攻撃に明け暮れていた」と言ふのだらうか。恰も「他者攻撃」の爲の「他者攻撃」を、野嵜が繰返してゐたかのやうに喜六郎は極附けてゐるが、何の根據もない、惡意の中傷である。もしそんな事實があるのだとしたら、何時何處で誰に對して何を何んな風に言つたか、具體的に指摘すれば良い。勿論、喜六郎に、そんな事は出來ない。ただ、當方が「極めて瑣末な、何うでも良い事を一々採上げて」と言つたから、喜六郎は「お前こそ」と機械的に言返したに過ぎない。
この種の「お前こそどうなんだ」式の言ひ方を好む人間には、常に自分自身に向けられた非難をかはさうとする傾向がある。「××と云ふ理由で、お前は反省すべきである」と言はれた時、機械的に「お前こそ反省したら何うだ」と言返す。子供ではないのだから――しかし、かう言ふと、「野嵜こそ子供ではないか」と、喜六郎はまたぞろ言返すのである。處置なし。

と言ふか、「野嵜さんや木村さんをはじめとする松原信者」つて誰だらう。なんか「松原信者」が、俺の知らぬ間に、大量増殖してゐたらしい。何處に何んな「松原信者」がゐるのだらうか、喜六郎さんには御教示願ひたい。そんなに澤山ゐるのならば、喜六郎さんが「野嵜さんや木村さん」だけを狙ひ撃ちする理由も説明して貰ひたいものだ。差別はいけない、問題がある人は等しく批判されるべきだし、喜六郎さんも平等に非難なさつたらよからう。閑話休題

未だに論われ続ける「論争史」騒動にしても、「何うでも良い事」を大騒ぎして大問題にしたのは、他でもない野嵜さんや木村さんである。

『國語問題論爭史』の一件にしても、身内の正字正かな派であつた青方の中村が、人を裏切つて、攻撃する爲にわざと大袈裟に騒いで見せたのであり、しかもその騷ぎ方が異常であつた爲に話がこぢれただけで、青方の中村の揚げ足取りが無ければもつと別の方に話が進んでゐたに違ひない。青方の中村が裏切つたのが惡いのであり、裏切られた當方には何の問題もない。裏切るよりも裏切られる方が道徳的に遙かに増しであるとは福田恆存が言つてゐた事だ。「惡い事をされた人は、惡い事をした人間を非難するが、された側も惡いのではないか」――馬鹿な事を言ふな。何でもかんでも野嵜の所爲にするのは、止めて貰ひたい。
と言ふか、「大問題」も何も、『國語問題論爭史』の件では、青方の中村が一人で騷ぎ立てたに過ぎず、しかも、青方の中村が幾ら大聲を出しても、當方が默り込んだら到頭誰も乘つて來ず、青方の中村のあてが外れてしまつた結果に終つてゐる。それでも執拗に青方の中村が嫌がらせ目的で「纏めサイト」なんてものを公開し續けてゐるからこちらは不愉快に思つてゐるに過ぎない。(と言ふか、喜六郎のやうな非正字正かな派が、正字正かな派を攻撃するのに利用する事があり得るのだから、正字正かな普及の事を本氣で考へてゐるのならば、青方の中村はあんな形で大袈裟に内輪揉めをやつて見せるべきではなかつた。青方の中村こそ、問題が「ある」のである。青方の中村が、純粹に正字正かな派なのではなく、ただの右翼で、運動屋にすぎず、正字正かなも利用すべき政治的な道具としか考へてゐない事は、昨今の一件ではつきりわかつた。もつとも、前から判つてゐた事でもある)

と言ふか、「『國語問題論爭史』事件」で問題として糺彈されるべきは、誰が何う見ても土屋道雄氏の文章を「檢閲」した出版社であつた筈で、ところが青方の中村はその「檢閲」の問題をうやむやにしてしまつたのだから、結果として國字改革推進派を支援してしまつた事になる。野嵜攻撃は、したければ勝手にすれば良いが、その結果として正字正かな派が國字改革推進派に手を貸したとすれば、喜六郎が公正な人間ならば、そつちも同樣に非難すべきだ。ところが、喜六郎は、なぜか青方の中村を非難・攻撃しない。喜六郎にしても青方の中村にしても、互ひに他を攻撃しないのならば、なぜしないのか、「説明責任」を果すべきだらう。
「野嵜は惡いと言ふ」事で、自分逹の「説明責任」は果された、と喜六郎も青方の中村も信じてゐるのかも知れないが、それならば諸君のしてゐる事は、明かに個人攻撃である。今更證據を擧げるまでもない、説明するまでもない、喜六郎も、青方の中村も、野嵜を個人攻撃してゐるのである。
「個人攻撃ではない」と言ひたければ、諸君は、諸君のブログの記事が、殆ど全て野嵜への攻撃で埋つてゐる事を辯解したら何うか。もちろん、喜六郎も、青方の中村も、「説明責任」を果しはすまい。そして、「説明しない」事によつて、彼等は「勝つ」のである。

當方は、開き直るも何も、「何が惡いのか」を理由を擧げて説明してもらつてゐないから、「當方に惡い事等ない」と言はざるを得ない。容疑者は容疑者である間は罪が無い。檢事がちやんと證據を提出して、動機なり何なりを説明して――それでも容疑者は、容疑が晴れる事もあるのである。
喜六郎檢事は、現在まで、ただただ「反省しろ」「反省しろ」と道徳的なお説教をしてゐるだけで、檢事の義務である「證據の提出」すらしてゐない。これで當方を「有罪」と言ふのなら、それは冤罪である。喜六郎は當方に濡れ衣を着せてゐるのである。ならば、當方は被害者で、喜六郎は加害者である。

反省すべき事がないのに反省する――と言ふより「反省して見せる」のは、小林秀雄も言ふやうに「御利巧」な人である。けれども「俺は馬鹿だから反省しない」と小林は「放言」した。「反省して見せる」僞善に耐へられなかつた――否、心にもない事をやつて見せるのが本能的に嫌だつたのだらう。小林は惡い事をしたと思つてゐないし、ただ「眞摯に見せかける」目的で「反省のポーズ」を取らうとはしなかつた。だから小林は立派な人物だつた。
俺は現在まで決して立派な人物たり得てゐないが、立派な人物には肖りたいと思つてゐる。少くとも、「眞摯に見せかけ、支持を得る爲に、反省したやうな恰好をして見せる」なんて、政治家のするやうな眞似はし度くないと思つてゐる。


しかし、何の惡い事もしてゐない政敵を掴まへて、「反省しろ」と迫つて、それで權力の座から引きずり落とさうとする、嫌な政治家がゐる日本の政界を、日本人は何の疑問も感じないのである。何んなに非道い政治が行はれてゐようとも、ただただ「選擧に行くのは義務」とか云つたスローガンを持出して、選擧に行かない人には道徳的な非難を浴びせる。――国民も国民なら、政治家も政治家。そして、その種の鬪爭は、ウェブでも縮小再生産されて、何うでも良いブログの記事が日々増殖する訣である。