闇黒日記?

にゃもち大いに語る

Apeman氏とは掲示板を見てゐた時代が違ふらしい

あー嘗つて俺が出くはした、變な「あつた」派の人とは別人ですか。それは何うも失禮を。

「中国政府が言ってるから30萬人虐殺されたというのは本当」説を唱へてゐるから當時のアレな人かと思ひましたよ。
俺が「『南京大虐殺』がなかつたら日本は無罪。あつたとしても組織的にやつたのでないからやつぱり無罪」と言つたら「『あつた』のに『なかつた』とは矛盾ですね。野嵜の論理は穴だらけw」と囃し立てた「あつた」派の××××がゐまして、その人が同じ主張をしてゐましてね。當時のYahoo!掲示板の「あつた」派の人は、その變な人の言葉を絶贊してゐまして、まあ、トンデモの人ばつかりだつたんですね。今の「あつた」派は、隨分論理的になつたさうですが、如何ですか。

返信をコメント欄に收めようと思つたのですが、書き始めたら長くなつたので、どうせなので長々と書きますよ。俺の文章は諄いからその邊は御勘辯を。

>組織的に虐殺を行はうとした事實が「存在した!」と言つてゐる「あつた」派はゐない筈だし

というより組織的/非組織的といった単純な二者択一がおかしい、というのが私の見解ですが。
ところで、nozakitakehideさんは「南京近郊」における、日本軍に所属する個人による、「個別」の虐殺や強姦の被害者を合計するとどれくらいになると推定されているのでしょうか? この質問なら、「大虐殺」があったかどうかについてのnozakitakehideさんの前提とは無関係に考えることができますよね? そしてその推定について私が納得できるようなら(別に「合意」する必要はありません)その部分はオミットして議論させていただくこともできるのですが。

2008/1/9(水) 午後 0:59 の Apeman 氏のコメント。
えーと、組織犯罪か何うかは問題ではないのですか。「あつた」派の人は、被告「日本軍」と云ふ事で責任追求しようとしてゐるらしいですが、その「日本軍」なる被告の設定があり得ないと俺は言つてゐる訣ですよ。その點で「あつた」派から眞面目な反論が來た事はありませんね。常に「監督不行き屆きの責任」と云ふ、話のすり替へによる、反論にならない「反論」だけが、返答として返つて來ます。監督してゐないならば、日本軍の上層部は「殺せ」と命じてゐない訣です。「未必の故意」とか言ふのか知りませんが、それが通るのなら、俺が「義」の嫌がらせを受けてゐたのを放置してゐた閲覽者諸子は「未必の故意」で「義」の犯罪に荷擔してゐた事になり、全員犯罪者になつてしまひますね。慥かに俺には都合の良い論理ですが、さう云ふ御都合主義に陷つてもしやうがない。
一箇の組織としての日本軍がやつたのでない限り、「大虐殺」にはなり得ません。「あつた」派の議論には、常に主體と動機の觀點が缺けてゐるんですね。それは「犯罪搜査」をする際には大變重要な事ですから、是非議論の際には論じて下さい。

>合計すると

これ、りんご3箇ととみかん4箇を合計したら幾つみたいな質問で無意味なんですよ。「あつた」派の人は早く目覺めて下さい。
組織的な犯罪なら、一つの行爲主體が行つた殺人の結果を合計して、犯罪の兇惡さを檢討出來ます。けれども、組織的でない個別の犯罪における殺人の數を足しても、意味はありません。
交通事故とかの統計なら兔も角、「あつた」派の人は今、犯罪について論じて、責任と云ふ事に結び附けたい訣でせう、ならば責任者は誰であるか、なぜ責任があるかを、豫め明かにしておかなければなりません。その上で、意圖的に行はれた統一的な行爲に就いて、全體を把握する、と云ふ事が可能になり、必要になつて來るのです。けれども、統一的でない、相互に無關係な個別の行爲なら、それを一つの事象と看做し、その原因を探るなんて事は不可能であり、其處で敢て統一性を論者に強ひるならば、それは不必要であるばかりでなく、先入觀を抱かせ、誤つた結論に導く、危險な誘導に當る事になるのです。
「あつた」派の人は、兔に角足し算しろ、と要求するのですが、それは「先づ一つの行爲として認めろ」と他人に強要してゐるのです。これは一つの立場を問答無用に押附けるもので、そもそもの議論の前提を偏つたものにするものです。それを「あつた」派の人は當然の事、アプリオリの事と認識してゐるのですが、疑ふべきです。
「あつた」派の人は、南京近傍における殺人の足し算を、ただ「しろ」と命ずるのでなく、それが意味ある足し算であると論證する義務があります。それがないのに兔に角「足し算しろ」「足し算しろ」と「あつた」派の人は言ふ、それが俺は嫌で嫌でならないんです。足し算した瞬間に、俺は自分の立場を捨てて、「あつた」派の人の立場を認めてしまつてゐる事になる――そんな「あつた」派の詐欺的な論法に、俺は乘せられる訣には行かないのです。その種の詐欺を認めるのは、眞實こそが重要である、と信ずる俺には、絶對に出來ない事です。

何度でも繰返しますが、俺は死者が千人でも萬人でも構はないと言つてゐます。何人死んでゐても兔に角日本軍の組織的犯罪でないのだから日本軍は組織として無罪である――結論が確定してゐるんです。だから一々死者の數を勘定する意味はありません。上の方の連中が「監督不行き屆き」だつたと、「あつた」派の皆さんは、言論の自由は「ある」から非難したければ自由にすれば宜しいですが、言論の自由は眞實を明かにする爲に使はれるべきですね。その點は常に辨へてゐていただきたいものです。ただ自分の頭の良さを誇らんが爲に或立場をとり、他の立場を愚弄して好い氣になる――そんな目的で、言論の自由を惡用していただきたくないものです。
「監督不行屆きの責任」と、「あつた」派は、言ひたければ言へばよろしい。けれども、それは無意味であるのみならず、死者に鞭打つ行爲であり、同じ告發理由で何度となく告發を繰返す、異常な行爲である、と云ふ事は、指摘しておきたいと思ひます。既に「東京裁判」で「有罪」になつて、被告が處刑されてまでしてゐるのです。今さら責任論を言つたところで何の意味もないし、言ふのは有害ですらある。何度も同じ罪で告發を繰返して良いとは、まともな國の刑法ならば言ひません。それが「あつた」派の人には解らない。

ただ、「30萬人説」だけは明かに嘘です。誰が何う見ても嘘だから仕方がない。支那の政府が言つたからと言つて、それだけの理由で「眞實である」なんて斷定する事は出來ませんし、どんなに××××な「あつた」派でも、斷定はした事がない。もつとも、斷定出來ないにもかかはらず、その斷定出來ない根據を理由に、「30萬人説は嘘と言ふ奴はトンデモ」とか斷定する人がゐますけれども、そちらの方こそトンデモですから、やめて下さい。右翼でも「明治天皇は暗殺されてゐたに違ひない。なぜなら、さう考へるとうまく説明出來るからだ」とか、無茶苦茶な事を言ふ××××がゐますけれども、左翼の側でも右翼の眞似をする必要はありません。

まあ、どつちみち日本人のした事だから、「虐殺」なんて言つたところで、大した代物ではあり得ません。「あつた」派の人は南京で日本人が大變偉大な行爲をやらかしたかのやうに宣傳してゐますけれども、本當に詰らない事件だつたのです。そこには理念も正義もありません。日本人は、ただ欲望に基いて、低級な殺人をやらかしたに過ぎない。フランス人が革命でやつた虐殺、ドイツ人がやつたユダヤ人虐殺、支那人文化大革命でやつた虐殺、或はヴェトナム人がやつた虐殺は、常に理念と正義を背景にしたものです。全て虐殺の名に價するものは理念に基き、正義に基いたものだけです。日本人に理念と正義は、そもそも觀念としてありません。ですから「南京大虐殺」だなんて、ど偉いもののやうに言ふ事こそが、寧ろ日本人を過大評價する事になるのです。日本人はただ支那人を見下してゐて、人間とも思はずに、苛めて、殺しただけです。そんなものを自慢したつて何の意味もありません。我々は、人を見下して人を人未滿のものに貶める日本人の惡しき性癖を自覺し、反省して、誤を繰返さないやうに務めるべきです。自分の事は徹底して棚に上げ、「責任追及」の美名の下に誰かをスケープゴートにして、苛め、罵り、嘲る、そんな眞似をする事を、誤と認め、反省する、それこそが今の思ひ上つた日本人には必要な事でせう。「あつた」派の人は全員、自分逹がいかに頭が良いかを誇示し、その爲に「愚かななかつた派」の「愚かな論理」だの何だのを、でつち上げたり何かしたりして、嘲つて、喜んでゐますが、反省すべきです。