闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「南京大虐殺はあつた」派の嫌な所駄目な所

南京大虐殺はあつた」派はですね、「議論」をしようとしないんですよ。議論しようとすると最初に「じゃあまず南京大虐殺はあった、日本軍は残虐な事をしたんだ、そう認めましょうね、認めましたね、よろしい、では日本軍がどれだけ非道な事をしたか、それを議論しましょう」と、さう言ふんです。明かに、價値觀の押附けです。價値觀を押附ける事は許されません。思想は自由です。ところが「あつた」派の人は、思想の自由を認めません。

思想の自由を認めない。「憎惡すべき邪惡な存在」を設定し、その場にゐる人間に罵倒と嘲笑を強要する。これはジョージ・オーウェルが『1984年』で痛烈に批判した獨裁者「ビッグブラザー」による「洗腦」の手口だ。
「あつた」派の人々は、この種のおぞましい「洗腦」を、ウェブと云ふ公開の場で、既に十年も實踐し續けてゐるのである。

今もApeman氏が、日本軍が虐殺した人数を議論しましょうと言つて來てゐる。誰が何う見ても、あらかじめ、「日本軍は悪い」「日本軍が組織的に中国人を殺した」と「認めろ」と要求してゐるのであつて、狡猾な思想の押附けをやつてゐるのであるが、Apeman氏に自覺はないだらう。

「あつた」派の手口を指摘する事はた易い。「僞證據寫眞」を濫發する論者を全く批判せず、論者に對する批判を全て受流しつゝ、その論者の主張を正しいとして推奬する。機械的に死者の數を積算するのを良しとし、幾らでも積み増しする。虐殺が「あつた」とされる領域を、南京市内のみならず、南京近傍まで、際限なく擴大する。虐殺の主體を特定せず、日本軍に所屬する人間なら誰でも追加する。
彼等はなぜこのやうな事をするか。「惡事を告發」し「責任を追及」してゐる積りだからだ。自分には正義があると「あつた」派は心から信じてゐる。「目的は手段を聖化する」――これの正確な意味は「ある」のださうだけれども、ここでは「誤用」の方の意――「あつた」派は、自分逹の糺彈は犯罪を咎める正義の行爲だから、犯罪を誇張する事は許されても、矮小化する事は許されない、と考へてゐる。これが何んなにをかしな考へであるかは、常識さへ持つてゐれば解る筈だが、今の日本で常識は殆ど崩潰してゐるから、案外「あつた」派の非常識な論理が普通に通用してしまつてゐたりする。


某所でhokusyuさんがコメントしていたように、「関ヶ原の戦いがあったかどうか」のまとめサイトなんてないわけですが、誰も文句は言いませんよね? 「関ヶ原の戦いがあった」ことを確認するために努力したことのある人間なんてごく限られていると思いますが、「関ヶ原の戦いはなかった」と考えるひとはまずいません。われわれは実に多くの事柄について、「新書の一冊」も「まとめサイト」も読まずに教科書を鵜呑みにしているのです(あるいは忘れているのです)。まして、旧日本軍の負の側面については「書かせまい」とする文部(科学)省と教科書執筆者の間でながらく綱引きが続いていることは周知の事実です。にもかかわらず教科書に書かれていることを疑う理由は何なんでしょうか? 「アポロは月に行ってない」なんて主張は、大部分のひとが資料を確かめるまでもなく「トンデモ」扱いするんじゃないですか? なのに南京事件否定論についてはなぜそうしないのですか?

「教科書に載つてゐるから事實」とか、どれだけゆとりなんだとか言ひたくなるが、この種の權威主義も「あつた」派の特徴で、兔に角「疑ふな、信じろ」と連呼する癖がある。關ヶ原の合戰と「南京大虐殺」とは全然無關係なのであつて、一方が事實だとしても、他方が必然的に事實であると云ふ事にはならない。Apeman氏も、「關ヶ原の合戰があつた、ゆゑに南京大虐殺はあつた」とは言はない。言つたら本當に××××で、それはApeman氏も解つてゐる。だが、ならば「ゆゑに」と言はなければ良い、とApeman氏は考へてしまつた。しかし、それもまたトンデモな話で、因果關係がない事を並べてゐるだけなら説得にも何もならない。
そもそも、教科書に載つてゐる事が事實だとは限らない。戰前の教科書は全て正字正かなだつたが、現在の教科書は古典と漢文の教科書を除いて全て略字略かなで表記されてゐる。戰前の教科書で大日本帝國憲法は不磨の大典、實に素晴らしい憲法であつたが、今の教科書では「日本国憲法」こそが世界一の素晴らしい憲法であるとされてゐる。
南京大虐殺」も、「虐殺」か否か、責任者は誰で惡事の程度はどれだけか、と、そんな話になれば當然の事ながら價値觀の問題で、事實の問題ではない。
Apeman氏ら「あつた」派は、常に「南京大虐殺」を「歴史的事實」と言張るが、そもそも「事實」の問題でなく價値觀の問題を議論しようとしてゐるのであり、事實云々はただ「あつた」派にとつて都合の良い觀點であるに過ぎないし、だからこそ「あつた」派は「歴史的事實」と云ふ言ひ方をスローガンとして叫ぶに過ぎない。だが、歴史的事實なら、責任だの何だのと言出すのはをかしいし、何處から何處までが一つの事實かと云ふ大問題を囘避し捲るのもをかしい。

「あつた」派のやり口は、常に汚い。俺は誠実で眞摯な「あつた」派を見た事がない。


ちなみに、俺の事を「傲慢だ」と言つてまはつてゐるアンチの人がゐる。何處を何う讀めば傲慢と云ふ事になるのか、どうもアンチ諸氏の價値觀では、「だ、である」調の文章で、斷定し、しかも怒るところが傲慢だと云ふらしいノデアル。自分を偉さうに見せかけてゐると云ふ事らしいのだが、「だ、である」調の文章は當り前の書き方であるし、斷定するのも當り前の話である。怒るのは自分が偉いからでなく相手の方が立場が上だと看做してゐるからに決つてゐる。目上の人間が目下の人間に對して向きになつて怒る事はあり得ない、目下の人間が目上の人間の横暴に對して怒るのである。例の花園園主アレクセイのやうに、餘裕ぶつこいて、鷹揚に構へ、叮嚀語を用ゐつゝ、相手を見下してゐるのは、あれは自分が一番偉いと心から信じてゐるから出來る事であつて、自分が一番偉いと思つてゐるあゝ云ふ態度こそナルシシズムであり傲慢と言ふ。さう云ふアレクセイだからこそ、俺のやうな人間が意見したから、「俺がこの世で一番偉い」と云ふあつてもしやうがないプライドを傷つけられ、それで俺を憎惡して、俺の事を掲示板荒しとしてでつち上げ、宣傳せずにゐられなかつた。
此のアレクセイのやうに、「あつた」派の諸氏も、常に不眞面目で、鷹揚に構へ、洒落を好み、ふざけつゝ、「責任を追及する」と云ふ態度をとつてゐる。「あつた」派は、常に自分が大變な物知りで、無知な連中が誤つた事を信じようとしてゐると憂慮して見せて、自分のインテリである事を誇示しようとしてゐる。
それこそ大變な傲慢であつて、反省しなければならない事だ。俺は常々「あつた」派その他の傲慢な正義漢を批判し、謙虚になるべき事を説いてゐるのだけれども、傲慢な連中が常に使ふ手は「じゃあお前はどうなの」と云ふ責任轉嫁である。「義」が俺の事を「無職」「無職」と言つて「物を言ふ資格がない」と宣傳し續けたのは、さうやつて自分逹の責任を輕減しようとしたのにほかならない。「義」が匿名で、或は俺の名前を騙つて、俺の評判を落さうと劃策したのを見れば明かなやうに、その行爲は無責任であるが、大體「責任」の事を言ふ人間は自分が無責任である。その無責任と云ふ事は、傲慢と云ふ事と直結してゐる。

嘗つてのYahoo!掲示板で跳梁跋扈した「あつた」派の連中は、初期の匿名主義者で、本當に何うしやうもなくたちの惡い手合だつたが、今、はてなを使つてゐる人々は、さすがにブログを使つてゐるだけに匿名には徹し切れず、それなりの謙虚さを見せてはゐる。その邊にはまだ希望が持てると言へば持てるのだが、しかし、「俺は正義の立場から犯罪の告發をしてゐるのである」と云ふ思ひ上りは隠せない。例のなんとか厨とか云ふ「なかつた」派に對するレッテル貼りを「あつた」派の連中が一人として疑問に思はず、寧ろ喜んでゐるのをみれば、やつぱり「南京大虐殺」に關はる連中の程度の低い事は否めない事實として受止めざるを得ない。