闇黒日記?

にゃもち大いに語る

日本人的な餘りに日本人的な

ブログなんかで「今日何々をしました」と書いてゐる人がゐるけれども、それはそれで結構、誰も文句の言ひやうはない――ところが、「今日こんな良い事をしました」と書いたら? 案外、日本のクリスチャン系の人にはこの種の報告が多いのでないか。しかし自らの善行を誇つてはいけないと云ふのがキリストの教へで、案外、日本のクリスチャンはキリスト教を理解してゐないのでないかと思はされる事が結構ある。

一方で、「自分は駄目だ」云々と自虐的な事を書連ねるブログも結構ある。こちらは日本では大變な流行で、外部の掲示板なんかで揶揄はれる對象でもあるのだけれども、わざわざ突撃してコメントを殘して來たりすればそれはそれで空氣を讀めないとか云ふ事になる。自虐なんだから誰にも迷惑かけてないだろと、そんな事なのだらうけれども、イタいとかそんな事以前に、自分で自分を評價する事、それ自體が大變な問題であると、實は此れがキリストの教へである筈で、外國でもやる人はやるのだらうけれども、クリスチャンの國では日本ほど自虐ブログなんて平氣でやる人は少いのでないか。

自分で自分を襃めるのであれ貶すのであれ、全て自分で自分を評價する事で、それは大變な思ひ上りであるとキリストは教へたらしいが、それでクリスチャンは何も語れなくなつたかと言へばそんな事はなく、大體ブログはあつち産である。
あつちの連中は、兔に角自己評價を避けんが爲に、客觀的と云ふ事を意識し出したのでないか。それゆゑ、自分の事を棚に上げた時の、價値觀を排除した客觀的な議論の仕方が、極めて早い段階で習慣となり、社會的に定着したのでないか。日本で常に道學臭のする議論が行はれるのと、あつちで激しくも建設的な議論が行はれるのとを比較して、何とも巧いシステムを造つたものだと感心させられる。それがキリスト教由來のものだと言ふと日本では即座に非難が浴びせられるのだけれども、要は巧いシステムの事が言ひたいのであつて、其の點に注目して呉れれば良いのだが、日本人は突込める所があればそれが結論でなく枝葉末節であつてもひたすら突込んで相手を苛めて泣かせて喜ぶ癖があるから始末におへない。