闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「責任」と言ふ奴を疑へ

今、日本テレビで太田総理と秘書田中の番組をやつてゐるのだけれども、例の年金問題を巡つて「議論がヒートアップ」、政治家が惡い國民が惡いと罵聲の應酬が。何て情けない事だらうと思つた。「責任を取れ」と要求し合ふ事が「議論」なのだらうか。日本人は根本的に議論と云ふものを勘違ひしてゐる。例の青方の中村もさうだし「義」や喜六郎もさうだが、他人の責任を追求する事こそが言論だと心から信じてゐる(積りの)日本人が多過ぎる。

いや、責任を追求したければすれば良い。追求すべき時には、だが。殆ど全ての日本人が、ただ、目立つてゐる人間に對して惡口を言ふ爲に、「責任」と言ふキーワードを濫用してゐるだけのやうに見える。「責任」と言へば、何となく立派な事を言つたやうな氣になれる。殆どの人が「責任」を問ふ理由は、自分を立派に見せかけるのが目的だ。他人の責任を問ふと息卷く連中は、大概、相手を見下し、侮蔑する言辭を吐く。これは、相手が侮蔑されるべき事をしてゐるから當然だ、と云ふ思ひ込みに基いた行動だ。しかし、そんな行動が常識的に許される、と云ふのはをかしい。

年金問題の「ヒートアップした議論」でも、「惡いのは政治家」「惡いのは國民(これは例の旋毛曲がりの金美齡女史が受けを狙つて何時ものやうにわざと奇矯な事を言つたに過ぎない)」と、ひたすら目の前の人間の責任許りを問題にした。全く馬鹿馬鹿しい事で、誰が惡いのか、誰の問題を改善しなければならないか、と言へば、それは役人・官僚に決つてゐる。今、政治家や國民の責任を問はうとしてゐる人々は、役人・官僚の問題は放置しようと言ふのである。
番組では、年金問題を起した國に賠償を要求するとか下らない結論を出してゐたが、そんな事をやつても何の解決にもならない。ただ、罵倒して、好い氣になつて、快を貪つてゐるだけの事だ。責任をとれと要求する人間は屡々無責任である。


宇野精一氏や塩田良平氏が国語審議会の委員だつた頃の事を書いてゐるが、それによれば国語審議会の総会邊は公開の議論だが、そこでは或種の議論が絶對に行はれなかつたさうだ。吉田提案と呼ばれる「國語の表記は漢字かな交り文を原則とする」事を審議会が認めよと云ふ提案が出された事があるが、總會ではひたすら無視された。これは、表音主義者の土岐善麿等がその邊の議論を必死になつて避けようとした事もあるが、實はあらかじめ文部省の役人が議論のセッティングを行なつてゐて、既に行はれた國字改革を見直さねばならなくなるやうな提案は全て潰す方針があつた所爲だと云ふのである。
宇野氏は漢字抹殺論が文部省内部に根強くあつて、それを實施する爲に役人が根囘しをしてゐた事を問題視してゐた。


當然の事ながら、そのやうな事はあり得ない、陰謀論だ、と云ふ批判が、現代の表記を「保守」しようとする勢力からは現れよう(その種の「批判」は、青方の中村なんかは大好きだ。「根拠なーし」云々)。けれども、年金問題で役人が何をしたか。役人の間で秘密裏に方針を決め、國を動かさうとする事は普通に「ある」事だ。
日本では長い間、役人が密室で樣々な事を行なつて來た。國字改革もその一つで、表音主義者も或意味、役人の掌の上で踊らされて來たに過ぎない。今、年金問題で役人のやつてゐる事の甚だ好い加減で甚だ秘密主義的である事は、一往國民に知られつゝあるが、「責任」を問ふ人間が全員、「政治家の監督責任」なんぞを主張し、政治家を罵倒して快を貪つてゐるだけであるのを見れば、將來も「役人の世界」が變らないだらう事は容易に推測出來る。
責任責任と言つて、目立つてゐる人間の責任だけをひたすら言募る連中は、問題を解決する意志など無い。責任責任と安易に言ふ奴は、むしろ無責任だ。