闇黒日記?

にゃもち大いに語る

アンチ諸氏の固定的な發想

俺の面を見た人の、多分半分位が「公務員の方ですか」と質問して呉れる。殘念ながら俺は公務員ではないし、今に至るまでやくざな稼業にしか携つてゐない。
星新一は『人民は弱し 官吏は強し』で、官吏と戰ひ敗れた父・星一を描いた。星は、如何に公務員が意地惡で頑なであるかを曝露し、激しく批判してゐる。この本は優れた日本批判であり、一讀をおすすめするが、官吏だけが意地惡である訣ではないから注意が必要だ。日本人には屡々とんでもない意地惡がゐて、執念深く嫌がらせを續けて他人を潰さうと劃策する。

うちのアンチで喜六郎と云ふ人物がゐる。この人物、何が氣に入らないのか「松原信者」を非難して、俺にも矛先を向けた事があるのだが、俺の反撃に參つてしまつて「無視する」と宣言、逃げてしまつた。
しかし、松原信者が如何に間違つた事を言ひ續けてゐるかを證明しようとブログを開設し、執拗に「松原信者は」「松原信者は」と言ひ續けててゐる。


俺は見た目で公務員と間違はれるのだが、この喜六郎の意地惡なやり方、何とも官僚的ではないか。實に陰濕である。
もちろん喜六郎子、右翼ではないから公務員や國家を即座に擁護しようとはしない。しかし、讀者よ、以下の記事を見玉へ。


國家の制度を批判してゐるのだが、なんとも淺薄な代物ではないか。喜六郎當人は自覺がないのだが、この記事、ただ本のタイトルを擧げ、「贊成である」と力強く言つてゐるだけのものでしかない。
批判されると。
説明してもいいんだけど、君に説明しても理解できないだろうからしない。
何時もこの手口でごまかして逃げてしまふ。「アンチ」の喜六郎は、自分を批判する人間を「信者だから愚か」と極附け、それを理由に反論を囘避するが、それでゐて自分はその「信者」が「愚かである」と證明した積りなのだから濟はれない。この手の意地の惡い「論法」を用ゐ、最初に結論を設定して、その結論に話を持つて行く爲に手段を擇ばないのは、星新一が『人民は弱し 官吏は強し』で描いた官吏の姿そのものである。

さて。
http://pink.ap.teacup.com/kirokuro/59.html
喜六郎はかう言つてゐる。
自分は「人はパンのためだけに生きるべき」だとは思わない。そもそも、そんなこと思っているんだったら、ブログなんて開設しないし。
越後野馬鹿太郎(仮名)に限らず福田恆存松原正氏の信奉者には、政治および政治によって保証される民衆レベルの生活(いわゆるパンの問題)を非常に軽視する傾向が強い。

「傾向が強い」式の言ひ方なら何とでも言へる。

自分が何時「人はパンのためだけに生きるべきだ!」などと書いたのだろうか?
詐術はやめてもらいたいものだ。

なるほど。
巧い事言ひ拔けてゐる積りなのだらう。だが。


自分は政治に道徳を求めるのは非常に危険であると考える。
なぜならば、政治とは内政であれ、外交であれ、何よりも国益を守るためにあるのであり、国益と道徳は必ずしも両立しないからである。
政治の世界では、国益を守るためには非道徳な行為も敢えて行わなければならない事もある。「戦争」とは、その最たるものであろう。
道徳に拘泥して国益を損じるような政治は、三流以下の政治である。

これは何うだらう。
喜六郎は、ここで「政治の世界」の事なのに「非道徳的な行為」と言つてゐて混亂を來してゐるが(當人は全く解つてゐないから自覺がない)、優先すべきは國益であると斷言してゐる。少くともこの文を見た多くの讀者は自然に「人はパンさえあれば生きていける、いや人はパンのためだけに生きるべきだ!」と喜六郎が主張してゐると思ふだらう。それを「誤解だ」と喜六郎は言ふかも知れないが、誤解だらうか。或は、何時も何時も喜六郎は誤解されるやうに書いてゐるのである、そこで批判されて「誤解だ」と反論し、批判を嘲笑するとしたら、喜六郎は積極的に「釣り」を仕掛けてゐるのでないか。喜六郎の挑發的な文體は、その發言を裏切つて、あからさまに喜六郎の文章が「釣り」である事を證明してゐる。何時だつて喜六郎は、ぬらりくらりと言拔けして、結果として反論してくる人間、或は「信者」を侮辱して、好い氣になつてゐる。
と言ふより、一般的に言つて、「アンチ」は「信者」と極附けた對象の人間を侮辱するのが目的である。侮辱する事さへ出來れば良いのだから、喜六郎の主張が行當りばつたりで底が淺いのも當り前。


で、今後は私も野嵜氏を批判する記事を書くことは止めにします。野嵜氏に関しては今後は徹頭徹尾黙殺する所存ですので、訪問者のみなさんも、野嵜氏に関する批判や「無職」叩きはご遠慮下さいますよう、よろしくお願いします。

かう言つた喜六郎が。


投稿者:kirokuro
2008/4/20 8:37
個人的な感想なんだけど、佐藤俊って野嵜氏や木村氏の取り巻きの中でも最低レベルの知能の持ち主だと思う。

平然と俺の名前を口にするのだ。何なのだらうと思ふのだが、喜六郎は自分がをかしいとは自覺しない。「アンチ」くらゐ自分の行爲に正當性があると信じ切つてゐる存在はないのであつて、例の「福田恆存をやっつける会会長」にしても「義」にしてもはたまた喜六郎にしても、自分の發言を反省すると言つた事は決して出來ないのである。喜六郎が叮嚀な口調で「反省」を口にして見せるのは――正しく「見せる」のが目的であつて、自分の主張の根幹とは決して關係のない、本當に何うでも良い部分に就いてだけである。自分が傷つかない範圍でわざと誤を認め、自分が誠實な人間であるとアピールする爲に喜六郎は「反省」を口にする。


「ゲリラ」云々の批判については、自分の勇み足だったなと今は反省しております。魂点に関しては、潔く木村氏に謝罪しようと思います。
申し訳ありませんでした。

「アンチ」の連中に限らず、例の「アレクセイの花園」の「園主」ことアレクセイ=ホランドもさうだが、公務員と同じやうに、叮嚀な口調を用ゐ、慇懃無禮な態度をとつて他人を侮辱して快を貪る意地の惡い人間がゐる。彼等は大變に頭が固く、教條主義的で、同時に敵身方思考が強く、非常に執念深い。斯うした惡い意味で官僚的な人間が蔓つてゐる事は日本の深刻な問題だが、戰前以來全く改善されてゐない。G.H.Qは、日本を統治する都合上、日本の官僚組織を温存したと云ふ話だが、しかし、今に至るまで非人間的で陰濕な意地惡が日本に存在し續けてゐるのはG.H.Qが惡いのではない。

喜六郎は我々「松原信者」が言ふ「政治と道徳の峻別」を、徹底的に誤解してゐる。その誤解の仕方は大變「アンチ」に都合の良いもので、兔に角「信者」が何か政治と道徳に就いて言へばそれは全て否定する事が出來ると云ふ結論だけが明かな「理解」の仕方だから議論では何うにもしやうがない。要は「なんでも『信者』の言ふ事は誤」と云ふ結論だけが喜六郎には「理解」出來てゐると云ふ事だ。だから喜六郎の説教は全て意味を持たないし、批判したり反論したりしてもしやうがない。喜六郎は偉さうな顏をして「君には理解できないよ」と曰ふ。星新一が批判した官僚のやり口そのまゝである。勿論、政治的に喜六郎は官吏を肯定しないが、さう云ふ事とは關係がない。
一往説明しておくが、我々「松原信者」は文學と政治の峻別を主張して、常に政治的に物事を解決しようとする傾向のある人々を批判してゐるに過ぎない。我々人間は、政治の場でもさうでない場でも、何時でも人間で、人間であるからには全て人間として行動を取る。人間の行動は、動物と違つて、屡々價値觀に基く。個人を相手にした行動であるか、不特定多數を相手にした行動であるか――そこで結果を齎す行動原理は異る。けれども、我々は機械的に行動したりはしないのであり、政治的な行動をする際にも道徳的に自己を批判するし、道徳的な行動をしても政治的な利害得失は考慮する。それらは分析的に峻別可能であり、その峻別の重要である事を我々「松原信者」は主張する。その峻別に無頓着であると、我々は實に醜惡な態度をとり兼ねない――態度と言ふのは、單純に行動が何うとか判斷が何うとか言へないからだ。この邊のディレンマを我々人間は常に意識して、その上で議論は行はねばならない。人間が常に遭遇するディレンマを考慮しないで單純に機械論的に物事を論ずれば、人間の行動を不正確に論ずる事になるからだ。我々「松原信者」が「政治と道徳の峻別」を喧しく言ふのには、人間を正確に――寧ろありのまゝにと言つた方が良い――論ずる事を目的とする。が、その議論はそれ自體として議論の對象となる。我々は人間的に議論するからである。そこで我々は議論に先立つて價値の問題を意識してゐる必要がある。
喜六郎にはその邊の意識、或は自覺が全くない。それだから極めて簡單に物事を片附けるし、結果として言ふ事が極めて非人間的になる。不正確な人間ほど冷酷になる典型例だ。それを喜六郎は反省しない。ただ機械的に、或は教條的に、自分の立場は何うであると宣言し、誰某の立場は何うであると極附けて、それで全てを片附けた積りになつてゐる。繰返すが、斯うした極めて非人間的な官僚主義的言動は、日本人の多くに共通して存在する極めて惡質な日本人の弱點であり問題點である。俺はこの問題の存在を執拗に主張したい。もちろん、意地惡の連中に自分の冷酷非情なる事は自覺できない事であり、俺の批判は通じないが、だからこそ俺は執拗に言はねばならないと信ずる。