闇黒日記?

にゃもち大いに語る

「昔は伝統的筆記体で書いていた」なんてウソだ!

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この記事のタイトルは、本當の事を端的に示してゐるものです。別に煽る積りも必要もありませんから。大熊氏の言つてゐる事が出たら目なのは火を見るよりも明かな事實。


当用漢字字体表の発表前には、印刷字体と手書き字体は違うものだったのである。
これこそ眞赤な嘘です。nonoさんが前の記事のコメントで教へてくださいました。
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/iryuhin/techo.htm
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/iryuhin/t008.jpg

誰が何う見ても、正字體(萩野氏が「旧字体」と言つてゐるけれども同じ)で手書きしてゐますね。
ところが、大熊氏一派は、さう云ふ批判を無視して、ひたすら「伝統的筆記体」が「手書きでは正しい」と主張し續けてゐます。こちらはその根據を示してほしいと何度も言つてゐるのですが、連中には全然傳はらない模樣。批判されるやうな事を言つておきながら大熊氏やその他の人々は、批判してゐるこつちに正字體の正當性だの何だのの證明を要求して來る。しかし、そんなのは何の意味もない事です。當り前の話で、議論のテーマは、大熊氏が言つてゐる事が本當か嘘か、なのですから。そして、結論は簡單で、「大熊氏の言つてゐる事は事實に反するから嘘」である訣ですが、しかし、事實で駄目だと解ると彼等は理論で勝負しようとするのです。あゝ言へば斯う言ふ。

大熊氏。
>伝統的筆記体と略字はちがいます。
もうね、馬鹿か、阿呆かと。
正直言つて、大熊氏、自分の好きなものを他人に押附ける爲に、ひたすら尤もらしく、偉さうに、物を言つてゐるだけでないかと。
「伝統的筆記体」つて、それ、本當に「それまで使われていた字体」なのかよ。そんなの嘘に決つてゐるだらうと。

と言ふか。
大熊氏。
>印刷用の文字と筆記用の文字の2種類があるのですから、組み合わせは4通りあります。
>
>1)印刷用の文字と筆記用の文字を使い分ける。
>2)筆記にも印刷用の文字を使う。
>3)印刷にも筆記用の文字を使う。
>4)印刷用と筆記用を混ぜて使う。
>
>……(略)
>
>僕の理想は1)です。「いわゆる康煕字典体」の明朝体も、洗練された筆記字体もともに美しいですから。
「美しい」の一言で終りです。これで納得しろと言ふのですから開いた口が塞がりません。「印刷用と筆記用(異体字も含む)を同じ字種であることを認識し、かつ使い分ける能力を「文字を渡る」といいます。」とか言つてゐますが、これ、自分にその「能力」が「ある」と言つて、自分が如何に偉いかを誇示してゐる事に他なりません。通りすがりとか名乘つてゐるコメント欄の人々が大熊氏を傲慢だと非難しないのは不思議です。
大熊氏の意圖は明かです。

>で、1)が実現できない場合は2)~4)のうちどれが良いか。僕は3)が良いとおもいます。その次が4)です。2)の「いわゆる康煕字典体」を筆記するのは僕には無理です。たとえば「藏」の左の鍵型に曲がった所は楷書でどう書けばよいのでしょうか。これは篆書で書くべき字体です。

即ち、大熊氏は結局のところ、國字改革の推進派に與するのです。一見正字に肩入れしてゐるかのやうですが、「筆記用」の字體を最優先すると言ふのですから、寧ろ正字を大熊氏は憎んでゐるのです。

紀元前の秦の国には金属器に鋳込んだり、石に彫ったりするための文字と、人間が筆記するための文字がありました。前者を篆書といい、後者を隷書といいました。
人間が筆記するための文字である隷書は千年の時をかけて研鑽され楷書に至りました。しかし金属器に鋳込んだり、石に彫ったりするための文字を人間が筆記するための文字にするための解釈の違いで数々の異体字を生みました。
唐代に至り、異体字を整理するために千年の研鑽を無視して、篆書の〈字体〉を楷書という〈書体〉にあてはめてつくった文字、それを正字といいます。
正字ができて一時はそれに影響される人もいましたが、やはり人間が筆記するには適さない文字なので、筆記に適した伝統的な文字が使われ、正字はほとんど使われなくなりました。
さらに数百年が過ぎ、清の康煕帝の時代になって篆書の〈字体〉を明朝体という〈書体〉にあてはめた文字が『康煕字典』という字書の親字に使われました。『康煕字典』には「この親字を使え」、ということは書いてありません。楷書で書かれた序文は正字でななく、伝統的な筆記用の楷書が使われています。
維新後の日本は、この『康煕字典』の親字を印刷用の字体に採用します。実際には字体統一がなされてこれを「いわゆる康煕字典体」といいますが。
この時点では、筆記用の字体と印刷用の字体は別でした。ところが印刷物で文字を覚えた人、筆記用の字体と印刷用の字体を混同する人が出現します。このような人の多くは筆記用の字体と印刷用の字体を混ぜて使っています。
これの打開策として文部省は筆記用の字体に近い活字をわざわざ拵えて国定教科書に使います。これが文部省活字です。
かうも「正字」を罵倒してゐるのですから、大熊氏は明かに正字嫌ひです。そして、自分が如何にも專門家であるかのやうな顔をして見せる事で、自分の説を權威附け、人を騙し、世の中を自分に都合の良い方向にそつと誘導して行かうと狙つてゐるのです。國字改革では、この手の鄙劣な手口が横行してゐます。困つた事です。


畫像は武林無想庵の手書きの原稿(複寫)。「拂」が正字體、一方「道」は之繞の點が無い略字。現實にかう云ふ手書きの文書があるのだから、俺は決して間違ひを言つてゐない。「昔は旧字体で書いていた」と云ふのは事實なのである。そして、事實として人は手書きの際、徹底してどの字體を用ゐるなんて事はあり得ないのであつて、適宜略字も交へる――それが現實だ、と俺は當り前の事を言つた。
ところが、これらを大熊氏は何う見るかと言ふと、「伝統的筆記体」でないから「間違ひだ」――もちろん、これは推測だが、しかし斯う云ふ見方を大熊氏はきつとしてゐる筈で、しかし、それでは最早、自分の理論の爲に事實を歪曲してゐるのであつて、批判されるのは當然の事となつてしまふ。
が、だからこそ、批判を囘避する爲に、大熊氏は斯う云ふ時、何も言はない。大熊氏は自分に都合の惡くなるやうな事は何も言はないで、ただ自分の主義主張を繰返し、勝手に雰圍氣が自分に都合良くなるやうに仕向ける。喜六郎がないて喜びさうな「すぐれた論爭術」だが、これでは話にならない、議論にならない。議論する事は良い事であり、議論を囘避するのは惡い事だ。
ところが、「そろそろコメント欄をスクロールするのは疲れてきたので、ぜひご自分のブログで主張を展開されることを希望します。」等と支援して呉れる同志の人が出て來るのである。御蔭で變な理論家もやつて行ける訣だが、日本では議論しない事が素晴らしい事だと信じられてゐるらしいので、この同志の人も、自分はとても立派な事をやつた積りなのであり、野嵜が荒らしで異常人格者であると心から信じているのである。堪つたものではない。