闇黒日記?

にゃもち大いに語る

讀書未滿

長い文章を讀むのは嫌ひなので俺は昔も今も眞面目に讀書なんてしてゐません。

最近讀んだ本ですか。拾つて來た本許り讀んでゐますね。生物學の話とか夢の話とか――今、有機化學の解説書を讀んでゐますけれども、ブルーバックス邊を讀んで「讀書」とか威張つて言ふのも何うかと思ひますね、我ながら。さすがに岩波全書の『鉱物概論』なんかは難物ですが、これを讀んでも讀書したとは言ひ難いでせう。勿論、そちら方面が專門の人には讀書たり得る訣ですが、こちらは門外漢で、だから「暇潰しの讀書」にしかならない。ラノベは讀書に入るか、と云ふ大問題と一緒です。藍上陸の××××小説『アキカン!』の二缶めが出ましたね。いんちき旧かなの文章が載つてゐますが、嘘ばつかり言つてゐる本だから嘘の假名遣なのでせう。これは買つて來て讀みました。虹裏方面の人にはおすすめですが、一般の人にはすすめられません。

岩波新書の奥村正二『火繩銃から黒船まで――江戸時代技術史――』を讀んで興味深かつた。駕籠に乘つてゐた日本人は汽車を見て驚いたのだけれども、これは彼我の文明の差に驚いた訣だ。ところで、鎖國をしてゐたが日本も江戸時代、或程度は西歐の文明を受容れつゝあつたし、そもそも鎖國以前、日本人は鉄砲を筆頭に樣々な文物を積極的に採入れてゐた。それが何時の間にか、驚くほど後方に置いてけぼりにされてしまつたのだけれども、なぜ我が日本國は西歐に置いてけぼりにされてしまつたのか。
日本人は或面で極めて進んでゐたのだし、例へば和算は大變優れてゐた。それを高く評價する人もゐるけれども、しかし和算は後に續かず、近代日本の數學に繋がつてゐない。斯うした「近代に續かない優れた日本の技術」が「あつた」。
絡繰りで動く御茶汲み人形は極めて精巧な作りの物で、これを作つた職人は西歐以外では數少い獨自に時計を作つた職人だつた。ところが近代的な技術である時計の絡繰りを作り得ながら、日本の不合理な時刻に疑問を抱かず、彼等は季節によつて一刻の長さが異る和時計を開發した。斯うしたちぐはぐな形態が、日本に「あつた」。
これらは、近代に至るまでの日本の問題と言はねばならない。
勿論、例へば金山・銀山の開發では、外來の技術が使はれ、一方、金や銀は海外に流出して、日本と海外との間の繋がりは(日本國内の各地の間の繋がりも)意外な程に「あつた」。鑛業の分野では、江戸時代と明治以降の歴史的な連續が「あつた」。
其の他、幾つかの事例を採上げて、筆者・奥村氏は日本の技術の歴史を示す。これが樣々な問題を含むものである事は言ふまでもないが、當座、筆者は技術史の史料を提供する事を目的にしてゐるので、問題意識は讀者が持たねばならない。
單純に日本人の優秀なる事を誇る言説は、特に右翼方面に限らず、案外無意識に誰もが持つてゐるらしく、日本人は、殊實利方面で、普通に主張するものだ。この本で讀者は過去の日本人が用ゐた多くの優れた技術を見出す。そして今の日本人の優秀さと關聯附けて、誇りに思つて安心する。けれども、この本は、過去の日本人が實に場當り的に技術を用ゐ、個別の技術を統合して理論や原理を生み出さなかつた事を告げる。それが何うしたと言はれるかも知れないが、錬金術から科學を創出した西歐を思ふ時、我々は彼我の大きな違ひに疑問を抱かざるを得ないのだ。キリスト教神道に象徴される(それらが全ての「原因」なのではない)彼我の發想の根本的な相違を(發想の相違が宗教でもまた結果として違ひを生じてゐる)、我々は文明の相違として認識する事が「あり得る」。
ちぐはぐかつ行當りばつたりに、實利を求めて、技術だけを錬磨しつゝある日本人だが、さうした過去のやり方を續けながら、我々は西歐文明の一部に自らを溶込ませつゝある――が、果して本當に「溶込んでゐる」のか何うか、それは反省されねばならない。壓倒的に強い西歐の「普遍的な文明」の前に、我が日本國の文明はひとたまりもなく碎け散つた訣だが、今、餘りにも西歐化・「文明化」された日本人の生活が、西歐人の生活と依然として「何處か異る」ものであり、日本人の政治が西歐人のそれと「何處か異る」ものである――それで我々は「何か困る事があるのか」と考へて、當り前のやうに「我々のやり方」を續けてゐるし、それに反撥する諸外國の態度を當り前のやうに「異常だ」と極附けて、例へば右翼諸君はアメリカを罵つて平氣でゐる。しかし、では、我々の「當り前」を我々にとつての「當り前」と言ふ事で、相手の立場から見て何うであるか、を考察する必要はないかと言ふと、そんな事はない。依然として西歐の文明は強力であり――衰退したと言はれながらもヨーロッパは現在も外交の領域で重大な役割を演じてゐるのだし、現在の國際社會のあり方は、歴史的に西歐的なあり方となつてゐる。そして、アメリカは「ヨーロッパの一員」として振舞ひ、アメリカ人の思考樣式も徹底してヨーロッパ人的である。彼等は、實は數においても壓倒的に優勢なのであつて、さうした連中を相手に日本人は自分逹の「當り前」を押通して、それでやつて行けるのか、と云ふ問題がある。
『火縄銃から黒船まで』は、日本の技術史であり、一面、理系の人が興味を持つて讀む筈の本であるが、歴史として文系の人間も問題意識を持つて讀み得るものである。
が、なにぶん古いので(1970年5月20日第1刷発行)、ここで紹介しても恐らく誰も讀まないだらうし、それに、やつぱりこの本も、ブルーバックスの類と同じで、讀んだ所で、それほど價値のある讀書とはならないやうに思ふ。問題意識なんて、何を讀んだつてそれなりに持てるものだ。
氣樂に讀めてしまふやうな本は、ちやんとした讀書の對象と言はない方が良いと思ふ。