闇黒日記?

にゃもち大いに語る

マルクスと孔子に關する走り書き的覺書

マルクス主義者が孔子を非難して排斥した事は海の向うで今でも共産主義を奉じてゐる國であつた事實である。しかしながらマルクス孔子とは、對立し合ふよりも寧ろ類似する所多い人物であつたやうに思はれる。

グレアム・グリーンはその小説『キホーテ神父』で、主人公の神父さんに『共産黨宣言』を讀ませて、この作者は善い人だ、と言はせた。マルクスが後世如何に非難されようとも、その主義を主張した動機は飽くまで善意であつたと言はねばならない。即ち、虐げられた人を救ひ、世界に勞働者のユートピアを齎さんと云ふ動機が、マルクスをして激越な主張を繰返させたのであつた。而して彼の勞働者への愛は、人類への愛であり、キリストの愛と同じ類のものであつたと言へよう。しかし、神を否定し、人が自らの手で人を救ふ可き事を主張したが故に、マルクスは自らが神と崇め奉られるべき運命にあつた。マルクス自身が思ひもよらぬ形で、マルクス主義者はマルクス信者となり、マルクスの愛は、形式的な共産主義の理論へと轉訛したのである。

怪力亂神を語らなかつた孔子は、仁を説いてゐるが、この仁なるものの正體もまた遂に論語では語られない。吉川幸次郎に據れば、論語孔子は人類に對して絶大なる信頼を抱き、また人類に對して絶大なる愛情を抱いてゐた。孔子には、單なる樂觀論ではないにしても、信念としての樂觀主義があつた。勿論、全て孔子の思想は讀み手の推測である。しかし、修身齋家に據つて治國平天下を實現せんとする絶大な望みが孔子にはあつたと言ふ事が出來よう。孔子の説く道徳は、政治的な結果を齎す事を期待したものであつた。茲に、マルクス主義者が鋭く嗅ぎ附けたやうに、封建體制に奉仕する爲の儒教の道徳が出現するのだが、封建制下にあつても近代の資本主義下にあつても、飽くまで個人の修身・努力を通して政治體制を改革すべき事を主張し、正義を實現して、人類の救濟が行はれるを希つた所に、孔子マルクスの類似する點がある。

彼等は、時代と状況が全く異る中で――しかし、良く考へれば、何れの時代も不穩で紊れた時代であつたのだが、さうした世の中を「良くする」事を願ひ、人類に幸福を齎す爲の思想を展開した事には變りがない。彼等が飽くまで人による人の救濟を主張した以上、我々は彼等の思想に同じ限界のある事を認識する必要がある。人は人によつて濟はれ得るか――ニーチェによつて近代の西歐で神は死亡宣告を受けたが、神を殺して超人思想を唱へたニーチェは、既に發狂してゐたのであつた。デカルトは神を必要としてゐなかつたと指摘したパスカルは晩年、キリスト教の信者として神學論爭にかかはつたが、私にはニーチェらよりもパスカルの方が遙かに頭が良かつたやうに思はれる。少くとも、パスカルは神のやうに崇められる事が無い。

マルキストにとつてマルクスは「神」である。儒學者に孔子は聖人であり、言はゞ「神」である。彼等が謙遜な人であつた事は、敢て否定しない。しかし、彼等が屡々自信に滿ちた言葉を吐いた事實は、また否定出來ない。そして、人類の救濟を叫び、その手段として政治を説き、更にその手段として修身を説いた事實は、彼等のタイプが類似してゐる事を示唆する。斯うした人々の著作を讀む時、我々は、頭から彼等の思想を受容れる必要はない。我々がニーチェを讀む時――例へばツァラトゥストラの言葉を何の疑問も抱かずに信じてしまふ必要がないやうに。我々は「マルクス智慧」と言はない。吉川幸次郎は「中国の知恵」で孔子の話を書いてゐるが、何うだらう、我々は再び孔子を批判的に讀む必要があるのでないか。それはマルクスの著書を批判的に讀むのと同じである。
ちなみに、今、「批判的」と言つたのは、「非難しながら」の意味ではない。我々は、書き手の主張を親身になつて理解しながら、同時に、他人の目で冷靜に眺めつゝ、讀む、と云ふ行爲をなし得る筈である。